vol.26

みんなのものになる。
そんな感覚が、なにかの気づきを与えてくれるようで、ときどき思い出します。
エチオピアの村をおとずれた、人類学者の松村圭一郎さんの文章。

”夕方、女性の大きな叫び声がした。男性たちはさっと上着を羽織り、長い杖のような棒をもって行く。どうも夫婦げんかのようだ。村では、どんな小さなもめごとも、お祝いごとも、災いも、すぐに「みんなのもの」になる。親にぶたれた子が泣く声が聞こえてくることもある。そんなときも隣人が仲裁に入る。問題が起きてもすぐに警察や行政などにゆだねず、双方が年長者を呼んで話しあいで妥協点を探る。互いにお節介なほどかかわりあう。それが問題にともに対処し、よろこびや苦難を分かちあうために必要だと考えられている。” 松村圭一郎『くらしのアナキズム』p.36-37

学生時代、私は、子ども食堂でボランティアをしていたことがあります。
貧困家庭の、ふだんの食事がままならない子どもたちに、ごはんを提供する場所。それまで、子ども食堂のことをそう思っていた私は、すぐにそのイメージを覆されることになりました。
みんなで料理をつくって、みんなで食べる。そこでは、その子がどういう理由で子ども食堂にやってきたのか、どのような家庭環境なのかを訊ねるようなことはありませんでした。
支援するー支援してもらう、料理をつくってあげるー料理を食べさせてもらう、そんな関係ではなくて、シンプルに、その場所にいるひとりとして、みんなとともに食卓をかこむ、そういうかたち。

家庭医を目指している友人から、こんな話を聞いたことがあります。
お腹が痛いというとき、それは消化器の問題かもしれないし、循環器の問題かもしれないし、ひょっとしたら精神的な問題かもしれない。専門医は、それぞれの専門領域でのみ判断と治療を行ってしまうので、それよりも、まず、あらゆる原因の可能性を考えながら症状に耳を傾け、相談を受け止める存在として、医師が身近にいることが大切なのではないか。

坂ノ途中のあるスタッフはこんなことを言っていました──うろ覚えだそうですが──。フォトジャーナリストの吉田ルイ子さんのエピソードだそうです。
一九六〇年代の半ば、ニューヨークのハーレムに滞在していた吉田さんは泥棒に遭った。近くに住む貧しい黒人の友人たちは、すごく心配して、大丈夫だ、いつでもごはんを食べにおいでと言ってくれた。ホワイトカラーの友人たちは、なにが盗まれたのか調べて、保険会社に早く連絡した方がいいと。

私たちは、物事を分解してちいさなパーツに分けて、原因を突きとめれば問題に対処できる、解決できると考えてしまいがちです。でも、子どもがきちんとごはんを食べられないというとき、その背景には、さまざまの理由が複雑に絡まりあっています。自分で原因を考えて、適切なところに支援を求めましょうという言葉は、あまりに現実とかけ離れていて、哀しくひびきます。
まずは、寄り添う。他人事(ひとごと)ではなく、自分事として受けとめる。
やって来た子どもたちを、支援の対象として見るのではなく、等しく、そこにいるひとりひとりとして接する子ども食堂は、そのような場所だったのかもしれません。

だれもが、あるとき、いろいろに問題をかかえます。いつもいつも元気ではない。病に伏せたり、お金がなくて生活に困ったり、なにかのトラブルに巻きこまれることがある。そして確実に老いてゆく。

”〜「利他は偶然への認識によって生まれる」ということです。私の存在の偶然性を見つめることで、私たちは「その人であった可能性」へと導かれます。そして、そのことこそが、過剰な「自己責任論」を鎮め、社会的再配分に積極的な姿勢を生み出します。ここに「利他」が共有される土台が築かれます。” 中島岳志『思いがけず利他』p.145

私はその人であったかもしれない。そういう認識をもって、あらゆる人をそのままに受入れて、柔らかに関係を築いていく。そんな社会を私たちはつくることができるのでしょうか。
先の、家庭医を目指す友人から、社会的処方という考え方があると教えてもらいました。
薬を処方して病の治療を行うのとはべつに、地域とのつながりを処方して、問題の解決にあたるという方法です。
暮らしの視野、単位を拡げてゆく。そうすると、自分事の範囲も大きくなるような気がします。昨日の夜ごはんの余りが冷蔵庫にあるから食べてね、お菓子をたくさんもらったからどうぞ、私が暮らすシェアハウスでは、なにかが余ればシェアする、なにかが足りなければシェアしてもらいます。ひとりで抱えこむのではなく、開かれた人として、人と関わる。ひょっとしたら、そんなふうに暮らしの関係性を再構築していくとこで、いまの社会に足りないものは補完されていくかもしれません。

イヤホンをしっかり耳に突っ込んで、ノイズを遮断して、俯きがちに街を歩いていると、社会との関わり、世界を認識する感覚を失ったような気がすることがあります。それでも、レストランや居酒屋で、サプライズのバースデーソングが流れたとき、見ず知らずの人に向けて、おめでとうと祝福する、そんな自分に安心するのは私だけではないように思います。

●石川凜