vol.24

ごみって、なんでしょう?
ひどい虫喰いにあって、畑のわきに積みあげられ、放ったらかしになった野菜はごみと呼ばれないけれど、ごみ箱に入れられた野菜はごみになる。生ごみは、収集車で運ばれればごみだけれど、コンポストで堆肥にすれば、ごみでなくなる。
ごみは、最初からごみとして存在するわけではなく、私たちが、これはもう役目をおえた、ここからさき、なんの役にも立たないと判断したとたんに、ごみになることがわかります。

ごみを出さない。そう決めた自治体があります。
今年の春、私は徳島県の上勝町をおとずれました。いろいろなメディアにも取りあげられていますが、上勝町は2003年に日本ではじめてゼロ・ウェイスト宣言をした町として知られています。

上勝町にごみ収集車は走らず、町の人たちは、それぞれ家庭で出たごみを、ゼロ・ウェイスト・センターという場所に持ちこみます。
そして、センターでは、そのごみは45種類以上に分別されます。
ケチャップやマヨネーズのキャップのなかに付いていたアルミのシールは、洗って、乾かして、雑金属のコンテナに。お刺身に付いてきたワサビの袋は、余ったワサビはコンポストに出し、袋は内側を洗って乾かし、プラスチックごみに。上勝町のごみのリサイクル率は80%を超えています。
どうしても燃やさなければならないもの、どうしても埋めなければならないもの、それが残りの20%です。たとえば、使ったあとのティッシュやマスク、保冷剤、マニキュアの瓶といったもの。「どうしても」という文字を見ると、そこにものを入れるのが申し訳ないような気持ちになりそうです。

それぞれのコンテナには説明書きがあります。その「もの」の処理にかかる費用、リサイクルされることで得られるお金、下のほうには、それがどこでなにに生まれ変わるのか、どういう処理をされるのかが書かれています。たとえば、ガラスや陶器類は、1kgあたり42円をかけて、路盤材(道路工事などに用いられる砕石のようなもの)にリサイクルされる、というふうに。

ごみは、どこに運ばれ、どうなるのか。運搬、処理にかかる金銭的・環境的なコストはどれくらいか。私たちは、ごみ袋を収集場所に持っていってしまうと、それを考えることはほとんどありません。
各自治体が進めている、ごみ袋の有料化は、ごみの処理にはお金がかかるという認識を拡げるには有効かもしれませんが、ともすれば、お金を払えばごみを出してもいいという意味に履きちがえられているようにも思います。

私は、普段、これはほんとうに不必要なものかな、とできるだけごみを出さないようにと心がけてはいます。でも、どうしても、ごみにならざるを得ないものがたくさんあります。食品を載せるスチロールのトレイ、ポストに投げ込まれるチラシ、商品パッケージのあれこれ。それらは、ごみになるという前提のものなので、どれだけごみを出したくないと思っていても、ごみにする以外の方法がありません。
その一方で、着古してボロボロになった服や壊れるまで使った電化製品などは、私がそれをごみだと判断したという感覚があります(だから棄てるときも、ああ、もったいないとか、これまでありがとう、といった気持がわいてきます)。

日本人1人が1日に出すごみ(家庭から出る生活系ごみとオフィスなどからでる事業系のごみを合わせた一般廃棄物)の量は約930g。そのうちの20%がリサイクルされ、残りの80%は焼却処分と埋めたて処理に回されます。1人あたり1日に100gちょっとを土のなかに埋めているとされます──この数字は近年横ばいのようです──。そのほかに、一般廃棄物の8倍も排出される産業廃棄物があります。スーパーやファストフード店にはつくりたての食品が並び、デパートには新しい洋服が飾られ、町には新築住宅が建てられる、その裏側で、ごみは生れています。
リサイクルの技術も向上しているし、ごみとされていたものを素材に用いたアップサイクル・プロダクトも話題になってはいますが、どれほどごみの減量化ができるのか、うまく想像することができません。

ごみは、人がごみだと決めたときに、ごみになる。はじめにそう書きましたが、それなら、私たちは、これまでごみだとしてきたものを、ごみでなくすことができるのでしょうか。
雑草も、害虫も、農家さんにとっては不要な、ごみのようなものでも、生態系にとっては必要なものだったりします。ごみは、どこから眺めてみても、不要、邪魔になるものだけとするべきでしょうか。
たとえば石器時代、ヒトはごみをどう考えていたのでしょう。

●石川凜