vol.22

昨年の夏、宮城県石巻市を舞台としたアート・音楽・食の総合芸術祭「リボーンアート・フェスティバル」を見に行きました。
海辺に立つ鹿のモニュメント「White Deer (Oshika)・名和晃平、2017」でご存知の方もいらっしゃるかもしれません。青い空と海を背景にして立つ巨大な白い鹿の姿は凛として美しく、太陽の動きをなぞるように、身体にあらわれる影の様子が変っていくのがとても素敵でした。

私が写真を撮っているあいだも、多くの人が近くを行ったり来たり。しきりにシャッターを押していました。きっとこれをSNSに投稿するんだろうな、そう思うとなんだか少しもやもやとした気持ちになりました

「WhiteDeer(Oshika)」の展示場所の荻浜エリアにたどり着くには、駐車場から海沿いの小道をしばらく歩くことになります。
対面したときの、その大きさや立体感、そして海風の香りや砂地を踏みしめている足の感触。「WhiteDeer(Oshika)」は多くの感覚のうちにありますが、写真は限定された範囲の視覚情報にすぎません。私のもやもやは、切り取られた作品が多くの人に届き、鑑賞されることに対する違和感だったのかもしれません。アートを写したその写真は、アートなのでしょうか。

同じエリアには、狩野哲郎さんの「21の特別な要求」というインスタレーション作品がありました。
チェスの駒、木の棒、スーパーボール、食器、石、材木などたくさんの人工物と自然物が風景のなかに配置された空間。私は──おそらく一緒だった友人たちも──これはなにを表現しているんだろうと困惑しました。カメラを向ける人たちも多くありません。どこからどこまでが作品なのか、その境目がわからず、切り取ることが難しいからでしょうか。

私は作品名の表示の下に文章を見つけると、作品が何を表現しようとしているのかをどうにか理解しようとしました。
そして、そこに書かれていた「狩猟」という単語をあらわしているようなモチーフを見つけてとても安心しました。それと同時に、この「21の特別な要求」に意味を見つけなければいけないと焦っていた自分をおかしく感じました。

“いろいろな場所や事柄がむき出しにされるなか、知らない事があることは一つの喜びだ。1+1の答えは2だけではない。
芸術はその答え”!”を自ら創りあげることができるから、いつだって囚われの身になってはいけない。効率という言葉も知らない小さかった頃は、誰もがそんな”!”を持っていた。だから世界に散らばるワクワクは減らなかった。”
Reborn-Art ONLINE 堀場由美子「その後の物語〜風をとらえるもの #03〜」より
https://www.reborn-art-fes.jp/shikanoyukue/yumikohoriba/03/

スマートフォンやパソコンのディスプレイに並ぶ文字、外にはいろいろな看板や標識、私たちは日々、言葉で情報を受け取り、処理しています。
だからアートを前にしたときにも、言葉を探し求めてしまう。感じること、言葉では捉えられない“!”を呼び覚ますことこそがアートの面白さであるはずなのに。

人は世界を言語によって認識・解釈しているという研究もあります。私たちは言葉によって世界を深くとらえる一方で、私たちの思考は言葉に囚われて不自由なものとなっている。
近ごろは、音声ガイドを提供している美術館や博物館も増えているようです。作品の意図や、その背景、作者の来歴などを理解して、なるほどといって次の作品へと進んでいく。なんだか、裏に回答の書かれた単語帳を捲っては答え合わせをしていく作業のようです。

「感じる」ことよりも「理解する」ことを重んじる傾向。お料理を前にしたときも同じです。
その味わいは主観に基づいていてどのような言葉を用いてもあらわせないはずなのに、言語情報に引っ張られて「美味しい」「いい香り」と口にしてしまう。

視覚や聴覚といった、なにかの感覚を失った人たちが感じ取り、認識している世界のことをときどき思います。もしも私が言葉というツールを持っていなかったら……。
美しいと思うもの、それを言葉に頼らず、自分に問いかけてみたいです。

●石川 凜