vol.23

食べる、その目的のために必要な道具を、人間はくふうして生みだしてきました。
いろいろなちがいはあっても、調理のしかた、切る、擂る、砕く、混ぜる、火をとおすなど、それらの工程は普遍的なものだから、そのための道具は時代や場所をこえて、どこか似かよったかたちをしています。
そして、食べるという行為においても、水を飲むには椀の役目をはたすものを、料理を載せるには皿になるものを──プラスチックのものか、陶器か、木皿か、石か、バナナの葉っぱかはともかく──用いてきました。

三重県・多気町の「カタチミュージアム」には、食にまつわるさまざまな道具があつめられています。紀元前から近代にいたるまで、アフリカ、ヨーロッパ、中国、世界中のあらゆる地域で使われてきた、なにかを食べるためにつくられた道具。文字通り、そのかたちはさまざまです。

回転式パン焼きグリル

“昔はきっとものを作るにも苦労があって、木を削ったり、金属を打ち出したりするのも大変だったろうから、その用途のために余分な要素がどんどん排除されて研ぎ澄まされていく。食の道具は、その時代を生きた人間が食べるために知恵を絞って今そこにあるものでできることをしたという証で、そういう潔さに惹かれ、面白いと感じます。”
https://vison.jp/article/?id=294

眺めただけで、すぐに用途の見当がつくものがある一方で、まるでなぞなぞを出されているようなかたちをしたものもあります。そのひとつひとつに目をとめては、これはなんのために使われたものだろう、どういう食材をどう加工するためのものだろう、どんな人がどんな場所で手にしたものだろう、と想像をふくらませているうちに、時間はすぎていきました。

オオカミのような鋭い牙も、ハイエナのようなつよい顎もないけれど、私たちは、道具を使って肉を食べることができます。
たとえば、鳥たちのような羽をもたないヒトは、羽を生やすかわりに、道具をつくることで、とてもみじかい時間で空を飛ぶ能力を手に入れました。
そして、その進化=道具は、からだというくびきを逃れたことで、すごいスピードで、どこまでも広がっていきます。
ウィルバーとオーヴィルのライト兄弟が、エンジンをもちいた(空気より重たい飛行機の)飛行に成功したのは1903年のおわり。その飛行距離は36メートルでした。それから120年がすぎて、NASAの宇宙探査機ボイジャー1号は太陽系の外の星間空間、地球から225億kmの彼方をすすんでいます。

ヒトの行動によって道具は変わっていく。
電気ケトルが普及したことで、やかんが家にある人は少しずつ減っているかもしれません。急須や湯呑みもいつしか食器棚の奥に追いやられ、お茶を飲むという行為は、手軽でかんたんなペットボトルのお茶が役割をはたすようになりました。
行動の様式が変わり、それまでの道具が用無しになってしまう。カタチミュージアムに飾られていた、使いみちが想像できない道具たちも、そんなふうにして人びとの暮らしの外に追いやられたのかもしれません。そして、その道具の需要がなくなれば、道具そのものだけでなく、道具をつくっていた職人たちも姿を消していきます。

もちろん、あたらしく生まれる道具もあります。わりと最近のものだと、低温調理器やハンドブレンダー、自動調理鍋といったもの。大型の電気店や百貨店をおとずれ、ずらりと並ぶ調理器具を目にすると、どきどきしてしまいます。これがあれば、料理が苦手でも、家で、すぐに、手を汚さず、おいしいお料理がつくれる。そんなキャッチフレーズを耳にしながら、私は、祖母の家の物置で埃をかぶっていて、ほとんど使われなかったホームベーカリーやアイスクリームメーカーのことを思い出します。「あったら便利」とされるものは、「なくても困らないもの」かもしれません。

私がいま使っている調理器具や食器を、100年後、もしくは500年後の人が見たとき、なんと言うでしょう? いったい、それでなにをしていたの? そんな、なぞなぞになってしまうのでしょうか。

●石川 凜