八月、やまのあいだファームでは、千両なすや賀茂なすが大きく育っています。
真夏の、すぐそこに太陽があるような日射しを浴びながら、収穫作業を行います。実を採り、鋏で枝葉を整えていく。
はじめて畑仕事をしたとき、いちばん驚いたのは、収穫しない実の多さでした。濡れたように濃い紫色のなすの、収穫するのは、しっかりと育ったものだけ。それ以外の実は、あたらしい実の生長のために土に還す。もったいない気がしましたが、そんな説明を聞いて、腑に落ちました。
ときどき、畑をかこむ田んぼのほうから吹いてくる風が、すこしだけ暑さをやわらげてくれます。

去年の夏は、高層ビルにオフィスを構える会社で働いていました──まさか一年後に、畑でなすを収穫するなんて、思ってもいませんでした──。
お昼、十二時になると一斉に、スーツを着たオフィスワーカーたちが、あちこちのビルから吐き出されて、ちかくのいろいろな外食チェーン店に吸いこまれていきます。私もそのひとりとして、ほぼ毎日、なにもかんがえずに牛丼ばかり食べていました。
券売機にお金を入れて、ボタンを押せば、食券が出てくる。空いている席にすわると、一分たらずのうちに、食事が差し出される。ひと言も発することなく、食器から目を逸らすこともなく、感情が揺れることもなく、アクリル板で仕切られた席で、それこそあっという間に空腹を満たしておわる昼食。
疑問が浮かんだのは、子供が生まれたころでした。
なぜだろう? 私は目のまえの牛丼が、どのような過程を経てここに置かれているのかをまったく知りません。どんぶりのなかの玉ねぎひとつとっても、どこかの畑で育ち、収穫され、調理を経たはずなのに、それを思い浮かべることがない。あまりにも無意識な自分がいることに驚きました。
食事は、たくさんのよろこびとともにあったはずでは?

坂ノ途中にやってきたのも、息子のおかげかと思います。
私が子供を愛おしく思う、その気持は、私は両親から受け取ったものです。息子も、いずれ子供をもつことになれば、それを与えていくでしょう。人類の誕生はおよそ五百万年前、一世代を二十年とすると二十五万世代にわたってリレーされてきたのかと思うと、なにやら誇らしい気がします。
そして、未来にたいして、リレーの一走者として責任を持っていることにも気づきました。息子に、息子の子供に、百年後の子供たちにつないでいかなければならない「世界」とは、どういうものだろう。

いまは、お野菜の出荷の仕事をしています──ときどき、やまあいのお手伝い──。どうすれば、お客さまの食卓がたのしいものになるだろう、そんなことを、いつもスタッフのみなで相談し、働いています。
自分自身の未来を考えるとき、まったく想像がつかなくて、びっくりします。立派に実ることもなく、間引かれるのでしょうか。大きくはなったものの枯れるかもしれない。それでも、ほかのだれかの養分にでもなればいいのですが……。
でも、どうなったとしても、その経験は次の世代の役には立つと思います。これじゃダメだった、それなら次はこうしてみよう、そんなふうに。
家で、焼きなすを食べながら、そのすがたが自分にかさなって見えて、しみじみとしてしまいました。

●阿嘉滉平