※文中に昆虫食の写真があります。苦手な方は御注意ください



1.

 いまから十年ほどまえ、タイの農村で、私ははじめて昆虫を口にしました。カイコやコオロギ、ほかにも見たこともない昆虫たちが、いろいろに調理されて大皿に盛られているのを見たとき、一瞬、息がとまってしまいました。
 おそるおそる、それでも好奇心にまけて、いくつか食べてみると──もちろん見た目や感触に戸惑いましたが──エビや小魚とそれほどちがいがないように思いました。さらに、自分は昆虫も食べられるんだと、なにか誇らしさのような気持ちも湧いてきました。
 それ以来、昆虫食のイベントを見つけては参加してみたり、昆虫の料理を提供しているレストランがあると聞いて訪れてみたりしています。

”サイモンは、かつて鶏の足とクラゲを食べてみて好きになり、そして「中国にいたときは、ヘビと犬を手に入れたかった」と語る。そんな彼にとって最もエキゾチックだったものは、チャイナタウンで食べた海藻の中に入った、タコの卵料理だった。「飲み込むのが大変で……卵は黄色い球のようで、海藻の中に浮いていた」。これらの発言からは、食べることの男らしさ、すなわち食べ物へのほとんど逆に気どりを垣間見ることができ、しかも嫌悪を感じさせる食べ物であればあるほど、美食家らしい勇敢さと冒険心の強さを示すポイントが上がる。ある点では、こうした食べ物を注文し食べる能力は、その非常に逸脱した性質から、既存の社会規範や自身の身体に対する支配力を証明していて、自己コントロールの究極を象徴している。目新しく、ひどく風変りな食べ物を意識して探し出すことは、肉体の衝動に打ち勝ち、必要なときには従い、新しいものを嫌う本能的な反応を克服する手段なのだ。”
デボラ・ラプトン『食べることの社会学──食・身体・自己』p.247

 ニューサウスウェールズ大学教授、デボラ・ラプトンによる、オーストラリア人の美食家というサイモンへのインタビューの一節。書籍の内容はこのように紹介されています。「食はあなたが何者かを語る社会的記号であり、あなたの夢と欲望の象徴である。何を食べるかの選択や食の好みを、身体性と主観性の両面から説明する」
 私が二度、三度と昆虫を食べたことも、お化け屋敷に入ったり、バンジージャンプをするような「怖いもの見たさ」だったのかもしれません。でもそれは、四回目、五回目と数をかさねるごとに、新しい味覚を愉しむことにかわっていきました。セミはエビのような食感だし、タガメはラ・フランスみたいな香りがする。はじめて訪れた土地で新しい風景に出会うように、新しい昆虫を食べるたびに、新しいドアが開かれるような気がします。

2.

 私にとって、昆虫を食べることは非日常の行為です。けれども、タイの農村部のように、日常の食事として昆虫を口にしている地域はたくさんあります。日本でも、いまでも、蜂の子ごはんのような郷土料理がありますし、戦争のころにはタンパク質の不足から、セミを炙って食べたりもしていました。これを読んでくださっている方のなかにも、イナゴを食べて育ったという人もいるかもしれません。昆虫料理研究家の内山昭一さんによると、日本で昆虫があまり食べられなくなったことの背景には、衛生概念の発達と、スーパーマーケットの普及があるそうです。

”そもそも、大正時代には55種類程度の昆虫が普通に食べられていたんです。薬用としては123種類が利用されていました。しかし、衛生概念というものが発達してきて、伝染病の媒介となるハエや蚊などが徹底的に駆逐されるようになってきた。そして、ハエや蚊の不衛生な生き物というイメージが、そのまま昆虫全体のイメージにつながってしまった。それで嫌悪感が生まれ、昆虫食が一気に廃れてしまったと考えています。
 また、スーパーマーケットの参入により、スーパーに並ばないものは「一般的なものではない」という認識が広まってしまったことも、昆虫食衰退の一因でしょう。昆虫はとれる季節も限られていますし、価格変動もある。だから、商品としてスーパーでは売りにくいんです”
昆虫料理研究家が語る、昆虫先進国の日本で「昆虫食」が廃れた理由 | Think Blog Japan

3.

 二〇一三年に国際連合食糧農業機関(FAO)が食糧問題の解決策のひとつとして昆虫食の普及を挙げたこともあって、近年、昆虫食への注目は世界中で高まっています。高タンパクの食資源として、飼育は畜産にくらべてはるかに簡単で、環境への負荷もちいさいことから、「昆虫食が世界の食糧危機を救う」といわれることもあります。でも、現実はどうでしょうか。誰もが肉のかわりに昆虫を食べるようになるかというと、それはなかなか難しそうです。パウダーやエキスにして、食品に混ぜ込むとりくみや、家畜飼料として昆虫を活用する研究もおこなわれています──とはいえ、私たちは、問題の解決策を単純化して考えがちです。食糧危機に対応するためには、いろいろな手段・方法があって、優先度にもちがいがある。昆虫食という選択も、そのひとつになるかもしれない、ということ。
 すこしまえに、コオロギパウダーを使った学校給食が提供されたことがSNSで物議を醸しました。食べる・食べないの選択ができたにもかかわらず、給食だから否応なく全員が食べるものという誤解が生じていたために、議論が白熱してしまったようです。いずれにせよ、食糧問題の解決、環境への配慮といった「大義」を旗印にしても、昆虫食の普及はそう簡単ではないように思います──。

 いまは、コオロギパウダーを練り込んだプロテインスナックが、コンビニエンスストアでも手に入るようになりました。
 ながいあいだ、食べるものではないとされていた昆虫たちが、大義を背負って、私たちの、食べない・食べるの境界を越えようとしている。また、昆虫を食べていた時代のことや、いまも昆虫を食べる地域やその料理を知ることで、食べないという境界を越えていくこともできる。
 境界を越えるのは、ちょっとした楽しい冒険になるような気がしています。タガメのつぎは、どんな昆虫食に出会えるのか、それはどのような味がするのか、わくわくしています。

●石川凜