vol.009
二〇〇五年九月──。
シク教の聖地、インドのアムリトサルから、国境を越え、パキスタン東部のラホールへ。数日の滞在のあと、北のラワールピンディへ向かい、そこからバスを乗り継いでフンザ地方を目指した。
フンザでは氷河を見られるといううわさがあった。そして、真偽は不明だが、ある物語の舞台のモデルだと耳にしていた。「風の谷のナウシカ」だ。
イスラムの教えに、旅人を大切にせよ、というものがあるからか、出会ったパキスタンの人たちは、とても親切だった。一本目のバスでも、二本目のバスでも。隣の席の人と言葉をかわしていると、家に来る? 泊まる? と言ってくれる。大丈夫、とことわると、そうか、良い旅を、とあっさり返される。グイグイ来られると引いてしまう気質の自分には、これがうれしかった。三本目のバスで、俺んち、来る? と言われたときは、三度目の正直というか、もう、今日はそういう日なのかと思い、心づかいに甘えることにした。
彼は、ハッサンといった。カワジャ・ハッサン。二十九歳だけれど、もっと歳上に見えた。ハッサンのおかあさんが夕飯をつくってくれ、食後は村を散歩した。白い石積みの町並み、ちいさく、赤い姫リンゴがあちらこちらにたくさん実っていた。
翌朝は、温泉へ案内してくれた。サンダルで歩いちゃだめそうな急斜面や岩がごつごつしたところをハッサンはずんずん進む。日本を出てから数か月、お湯につかる機会がほぼなかったぼくが温泉を堪能しているあいだも、ハッサンは、あたりをうろうろ歩いてはしゃがみこんだりをくり返している。落ちている石鹸がないか、さがしてくれていたのだ。
ハッサンとわかれ、さらに奥地へ。その後、峠を越えてペシャワールのほうに抜け、やがてイランに入った。
あれから二十年が過ぎた今年の二月、滋賀の近江八幡市で有機農業のセミナーをおこなったとき、フンザ出身だという若者に出会った。ハッサンの話をすると、人口のすくないところだから、共通の知り合いがいるかもしれないという。あちこち引っ搔き回して、ハッサンが書いてくれた住所と彼の写真を送ると、すぐに返事が来た。
ハッサンの暮らす村は、母の実家のあたりだ。叔父がハッサンのことを知っていた。彼は、ドバイではたらき、この十二月に亡くなった、と。
二十年間、ときおり思い出すことはあっても、ずっとハッサンのことが心の表面に浮かんでいたわけではない。けれども、たまたま、彼と同郷の若者に出会い、ハッサンがすこしまえに亡くなったことを知る。この偶然を、どう受け止めていいのかわからない。
ハッサンが連れていってくれた、美しい村と、やさしさ。それ以来、日本では、あまり馴染み深くはないかもしれない、パキスタンという国や、イスラムの人たちに、ぼくは親密な気持ちを持つようになった。
そして、むかしからずっと好きだった「風の谷のナウシカ」を、だれかに勧めたり、引きあいに出してしゃべるときには、フンザの景色や、ハッサンとの二日間を、思い浮かべている。
●小野邦彦
Photo/Kunihiko Ono
※本テキストは、見知らぬ人物への同行を推奨するものではありません。バックパッカーに限らず、旅行において、誰をどう信用し、どう警戒するかは重要な問題で、自己責任の判断が問われます。