生態系はすべての単位が大切と、いつかどこかのナショナルジオグラフィックだったかなにかの雑誌でタイかどこかの生物学者の方が書いていた。記憶があいまいすぎて出典を明確にできないけれど、ともかく僕はその言葉がとても気に入っている。取材なんかで座右の銘を聞かれることがままあって、最近は「生態系はすべての単位が大切、ですかね」と答えることもあるくらい気に入っている。
気に入っているというか、正確には気になっている。
なにかとても大切な示唆をもたらしてくれる言葉のような気がしてるのだけれど、それがなにかはよくわかっていない。このあいだも、その言葉の意味は? と突っ込まれて曖昧にごまかしてしまった。ごめんなさい。僕には理解が追い付かないことがよくあるのです。たぶんこの言葉は大事だとか、この場所は好きだとか、先にそういった発見のようなものがあって、しばらくしてから意味がわかる、みたいな。

時間がすこし経って、自分にとってこの言葉がなぜ大切か、少しわかってきたので書き留めておく。

小さな営みと巨視的な物語

準絶滅危惧種にも指定されている日本最小のネズミ、カヤネズミの巣。自社農場〈やまのあいだファーム〉にて

そもそも生態系というのは生き物や水、光といった環境の相互作用や循環をさすのだけれど、畑の土の中にもそれはあるし、あるいは熱帯雨林など広大なエリアでの生態系もよく語られます。生き物要素は少ないので生態系というかどうかはアレだけれど、スケールの大きな話だとサハラ砂漠の砂が風で運ばれてアマゾンに栄養を供給しているという話もあります。干潟や湿地帯など、限定的なエリアでとてもユニークな生態系が形成されているところもあります。
僕が「すべての単位が大切」という言葉に惹かれたのは、巨視的な物語への、というかその引用の連鎖が生む乱暴さについての自分なりの態度なのだろう。巨視的な物語というのは、たとえば地政学におけるランドパワーvsシーパワーのような言説。海洋国家が覇権を握った時代から、大陸国家が覇権を握る時代へ、みたいな。西洋史とか東洋史とかに分断せずに総体を捉えようというグローバル・ヒストリーという概念も、最近盛り上がっています。文字通り巨視的ですね。
こういった世界の捉え方ってぱっと目にしただけでもエキサイティングでわくわくするので、インターネットと相性が良いように思う。なので時流に乗って、あちこちで目にしたり耳にしたりする。新概念や言説を提出する人は、とても多くの先行研究やミクロな事例も踏まえた上で語っていることが多いのだろうけど、それが引用され、またそれが孫引きされ、と引用の連鎖がおきるなかで、自分としては小さな営みが踏み潰されているように感じてしまっている。

ランドパワーvsシーパワーのようなスケールで物語が語られるとき、たとえば日本の里山の営みって当然捨象される。だけど、里山で千年以上続けられてきた地域内資源循環の智慧は、繰り返されてきた国家や地域(ここでいう地域は、ヨーロッパ、北アフリカ、みたいな大きさの)間の資源収奪の連鎖という、巨大な課題に対するひとつの解答となりえる。
小さく輝く智慧ってあるし、べつに輝かなくともなんだか優しい気持ちにさせてくれる物語もある。
岐阜の山間部のおばあさんは、彼女が幼かったころ地域で交わされていたあいさつは「へっあ」だったという。「へっあ」? なんだそりゃ。言葉というよりふいに漏れ出る音とか感嘆詞のよう。僕はとてもすてきだと思う。個の存在や出会いを取り立てて強調しない、あなたは今日そこにいるのだね、私はここにいるよと、ただ現状を認めるだけ。いまのぼくたちとはだいぶ違う世界認識があったことをかすかに感じさせる言葉。もしかすると、現代社会に生きにくさや閉塞感を感じる人にとっての救いとなる、失われようとしている何かの欠片があるかもしれない。あるいは、現代に還元できるものは何もないかもしれないけれど、それでもなんかいいな、と思う。

人の営みや社会、歴史というものは本当に小さい単位で切り取っても、それをまじまじと見てみるとそこには尽きることのない叡智があるし、美しい話もどんくさい話もたーくさんある。あるいは言語で表現するとその瞬間に消えてしまうような、幽かで淡い、良さというか印象というか、なんだかそっと心を撫でるものもある。
僕が学生時代に取り組んでいた人類学という学問には、こういう掬いきれなさそうなものをどうにか掬おうとする、矛盾を抱えた挑戦という側面があったりする。だけど世間様では、大きい物語ばかりありがたがっているような気がして、大人になれない僕は、「世知辛い世の中だぜ」と拗ねるような気持ちがある。
「生態系はすべての単位が大切」という言葉に触れた時に、全然違うテーマを語っているその学者さんが、自分が言いたかったことを言ってくれてるように感じたのだと思う。

これって、理系っぽい学問ではわりと自明だと思うんです。学びのスコープを大きくとっても小さくとっても、どちらが偉いとか難しいとか、そういうことはない。宇宙を研究対象にしている人が、微生物を研究対象にしている人より優れているわけではない、ということ。

1÷2はいくつなのか

日本各地の「天満宮」は、菅原道真さんをお祀りしています。こちらは、​坂ノ途中​近くの吉祥院天満宮

あるいはわけみたま(分霊)みたいなものだ。神社にあらたに神様を招く際、どこかからみたま(御霊)を分けてもらう。わけたほうの神社ではみたまが減るわけではないと考える。1をふたつにわけると1と1になるよ。という考え方。もともとの御霊もありがたいし、分霊も同様にありがたい。たぶんぼくたち人間にはこんな感じで、優先順位や序列を設けず、1をわけると0.5+0.5になるといったような、分析的なものの見方をしてこなかった膨大な時間があるのではないか。

巨視的に物事を捉えることが問題だと言いたいのではなくて、捨象されている多くのものがあることを心に留めたほうがいいのではとか、わかりやすさに溺れすぎてはいないかといったことが言いたかったのだけど、ちょっと巨視的であることに対してネガティブなトーンで書いてしまったかもしれない。イケてる巨視的発想ももちろんある。

5,670,000,000年後のこと

チベットのラサ近郊で行われる年に一度の大イベント、ガンデンゴンパの大タンカ開帳。2005年撮影

自分がこれまでに出会った中で一番巨視的な発想は、弥勒菩薩です。56億7千万年後に衆生を救いに来るという菩薩です。僕はチベットをウロウロしているときに、まぁなんか現世では大変なこともいろいろあるけど、あと56億7千万年したら弥勒菩薩が救いに来てくれるからぼちぼちやってこうぜ、みたいな考え方に触れて度肝を抜かれた。
そしてこの巨視的な発想をもつチベットの人たちが、目の前の命ひとつひとつ、虫や草花(さらには外国人旅行者である僕も)をとても繊細に大切にする。こういう価値観をもった人たちがこの世界にいて、ほんとに良かったと思っている。
農業も、56億年とまではいかないけれど、1万年や数千年くらいの時間軸で語れます。数千年前の農業が現代の営農スタイルにまで影響を及ぼしているという話を「vol002 100年先もつづく、農業を?」では書きました。数千年先の遠くを想うと、今の農業のありかたとしっかりと向き合うことになる。56億年先を信じるからこそ、生きとし生けるものに優しく、自分の生き方を大切にできるように。

●小野邦彦

トップの写真は、世界最古の砂漠と言われるナミブ砂漠。こちらも独自の生態系が築かれている場所です。坂ノ途中でいちばんのアフリカ好き、ゆっきー(吉村友希)による、2014年秋の撮影