vol.003

自給的農業という言葉があります。自分や家族で食べることを主な目的として、農産物を栽培したり家畜を飼育したりすることを指します。
経験的には、農業が身近だと言いたい人が「ばあちゃんが農家だから農業に親近感持っています」という場合、たいていそのばあちゃんの農業はこの自給的農業というスタイルです。一方で、本当に農業が身近な人は、自給的農家のことをあまり農家と言わない気がします。「自分ちで食べる野菜を育てる? それ普通じゃね?」みたいな。自家消費して都会で暮らす孫に送っておしまいという家もあれば、余剰分を直売所にだして現金収入にすることが習慣化している家もあります。

地方に移住する若者──もちろん若者じゃなくてもよいのだけれど──でも、自給的農業をやりたいという方は多いです。野菜を多品目で育てて、なんならちょっと田んぼにも挑戦しようかな。手植え手刈りでやってみようとか、大豆もそだてて味噌を仕込んでみようとか。くわえてニワトリを数羽飼って、朝から卵をとったり、たまにはニワトリをしめてみたり。
坂ノ途中でアルバイトしたのち自給的農家になった体当たり系女子「のらわかふぁーむ」のめいちゃんは、家に食べ物を漁りにきたアライグマを「かわいい~!」といって動画を撮った後に捕まえて、捌いてシチューにしていました。まぁこれは農業というか狩猟か。

ぼくの場合

南丹市で農業をはじめためいちゃん(黒竹芽以さん)。「生活と仕事がひとつづきになっている方がいい」

僕の母の実家は、奈良県の奥の奥にあります。十津川村という日本最大の村です。971万人が暮らす東京23区より広いのに3,500人くらいしか住んでいない過疎の極北のようなところです。
僕が子供の頃は、祖父母はまさしく自給的農業と山仕事をしていました。僕の夏休みは、薪で沸かした風呂に入り、井戸水でスイカ冷やして、ビーチサンダルで山を下って川遊びして、というものでした(この記事のトップの写真はその当時のものです。右下で困った顔をしているのが僕です。5歳くらいかなぁ)。
なので自給的農業やそれを生活の中心に据えた「農的くらし」には懐かしさを感じるし、それに憧れる人がたくさんいるのもよくわかります。一方で、じゃあ自分が実践するかというと、うーんどうだろう、撫でる程度にしかやらないんじゃないかな。僕が知っている十津川の人たちはやたら頑丈で働き者で早起きで、僕はそこまでやり切れる気がしないというのが理由です。

ともかくこの自給的農業というのは、なかなかよいものです。楽しい、季節の巡りが感じられる、なんだか元気になる気もする! けれども、これは職業というよりライフスタイルなので、稼ぎ口は別に必要です。まぁスマホや西洋医療など、俗世との接点を手放す場合はいらないかもしれないですが、そこまで極端ではなく、貨幣経済のなかで生きていく場合、ということですけど。

自給と時給

食っていける──野菜を、じゃなくて経済的な意味で食っていける──くらいに農業で稼ごうとすると、原価計算する必要があります。農業において、とくに有機農業においては、たいていの場合、人件費が一番大きな費用なので、目標とする時給と必要時間の見積もりが原価計算の大きな部分を占めます(温度管理をばちっとやるような施設栽培は、設備投資が一番大きなコストになりがちですが)。「いやいやうちは人件費ではなくxx費が大きいよ」という方もいますが、よくよく話を聞いてみると家族の人件費をゼロ円で計算していた、なんてこともあります。

目標原価、目標時給(自分の目標時給は最低賃金なんて気にする必要ないです。効率ばかり追いかけずに自分が大好きなスタイルで農業をつづけて時給400円確保できればOK、みたいな判断も、自分が納得していれば何の問題もないと思います)を設定して、それにむけて生産効率を上げていく。家族やスタッフの給与をちゃんと払える金額で販売できる形をさがす。経営とか戦略とかそんな難しそうな言葉は忘れていいので、ともかく時給分の稼ぎを確保すべく作業時間やコストを計測、把握して改善していくということが、農業で食っていくための第一歩になります。
つまり、自給的農業だったら時給は気にしなくてよいのだけど、そうじゃないなら時給を気にしていこーぜ、自分のやりたい農業は自給的農業なのか時給的農業なのか、あるいはそれがどれくらい入り混じったものなのか、大まかには決めておいたほうがよさそうですよ、ということです。ダジャレですがけっこう大事なツボなのでは、と思ったりしています。

時給的農業を成り立たせたい新規就農者が、自給的農業の方が出荷する直売所を主な販路にしているとちょっと厳しい。どうしても価格も安くなるし、直売所への納品、売れ残り品の回収の時間コストが大きい。もちろん、遠方からガンガン買い物客がくる、時給的農家が稼げる直売所もありますけど、それは割合としては多くありません。直売所というのは、自給的農業の世界の辺縁に位置しています。時給的農業でいくなら、やはり時給的世界に健全にアクセスできないとしんどいのです。

食えるんか? 食えてます!

坂ノ途中では──農業生産ではなく流通なんだけど──ともかく一般的な流通の感覚を持った人からするとどう考えても成り立たない挑戦をしつづけています。
とくに初期のころなんてほんとひどかった。朝から深夜までバタバタ働きつづけても、とてもささやかな売上しかなかった。
多くの人に、「それで食えるんか」と声をかけられた。心配して訊いてくれる人もいるし、嘲笑気味に言われることもしょっちゅうだった。そのたびに僕たちは「食えてます、農家さんから野菜たくさんもらうんで」と答えていた。つまり、時給的な「食えるんか」に、自給的に「食えています」と答えてはぐらかしていた。

いまだって相変わらず、とてつもない徒労に終わるんじゃないかとか、そんな風に思うこともあります。でも一方で、命とはそういうものだ、という感覚もある。徒労におわってもそれでいいのだと。こういう感覚は、自給的な人たちから受け取った部分がありそうです。つまりなんだな、また話がややこしくなってきたのだけど、時給だの効率だのの外側にある世界に触れてこられたからこそ、事業として成立しにくそうな非効率なテーマで時給の辻褄をあわせて事業をつくっていくという、見方によっては謎の苦行のようなことをつづけられているのかなあと思うのです。

時給的か自給的か大まかに決めたほうが良いと書いたものの、それは、どちらの世界からも振りまわされるとしんどいということ。自ら選び取った時給と自給の狭間は、それはそれで味わい深い。ぼくたちの場合、「食えています」とはぐらかして耐えているうちに、知らない間に少し明るいところに出たような気がしています。これから先のことは、結局わからないのだけれど。

●小野邦彦