「ひらがい卵をたくさんの人に食べてほしいんです」
 ありふれた、セールストークそのものの文句なのに、息を吸って、それから言葉をひとつひとつたしかめるようにして、岡崇嗣さんは話した。
 京都・宇治市の天ヶ瀬ダムにほど近い山の、広い山道を途中で逸れて、細い、舗装路とは呼べないほどに傷んで凹凸のひどい急坂の農道をしばらく上がると、造成された平地があらわれる。五十年ほどまえに養鶏業者があつまり、かつては養鶏団地と呼ばれていた金井戸という地域。その一角に、岡さんの営む〈WABISUKE〉がある。二千坪の敷地に真新しい三棟の大きな鶏舎、ここで岡さんは六千羽以上の鶏を平飼いで飼育しながら、卵を出荷している。
 ひらがい卵がもっともっと普及してほしい、という岡さんに、それはたくさん売れるといいということですか、と訊ねると、笑いながらうなずいた。
「そういうことになりますね」

メキシコに行ってみないか?

「養鶏をやろう、なんて考えたこともなかったんですよ。
 社会に出るまえ、もう普通の大学生で、これがやりたいなんて、はっきりしたものはなにもなかったんです。学部が経営学部でゼミが会計学だったから、就活も、会計系のコンサルタントあたりかなと思って、名前のよく通っている会社とか、自分に嵌まりそうな企業を捜したんです。でも、第一志望に最終面接で落ちてしまいました。ほかで、内定いただいたところもありましたが、そこに就職する、働くというイメージがまったく湧かなくて、どうしようかな、就職浪人かなと思っているときに、母の仕事先の方から声をかけられたんです。メキシコに行ってみないかと。
 それは、〈ナベル〉という京都の会社で、卵の選別と包装をする機械などをつくっている企業なんですが、当時のメキシコは世界でいちばん卵の生産量と消費量が多い国で、ふらふらしている僕を見かねてか、一年くらい行かへんかと。将来的に、会社が中米に進出するかもしれないし、人間関係がちょっとでも築けたらいいんじゃないか、くらいのゆるい感じで紹介されたんです。
 お金を出してもらったわけではないし、外務省からというかたちの留学だったのですが、恩もあるし、帰ってきたら、〈ナベル〉で働くのかな、とは思っていました。でも、向こうに行って、実際に現地の様子を調べているときに、JICAの方を見つけたんですね。その人は、途上国支援、養鶏で村おこしをしていて、僕は直感的に、あ、これだって思ったんです」

ふたつ目のターニングポイント

「日本に帰ってきたときは、海外で養鶏をやる、途上国支援をするって言ってました。とりあえず中米に行くわ、みたいな感じで。もう、まわりは大反対。突然、なにを言い出すんだって。あたりまえですよね。それで、日本で勉強してから行くという妥協をしたわけです。そのときは、たぶん二、三年でケツ割るだろう、くらいに思われてたんじゃないですかね。
 最初は、京丹波町の養鶏業者さんのところにお世話になりました。半年くらい、近代養鶏というか、今の養鶏の技術を教えてもらったんですが、そのときにもうひとつのターニングポイントがやってきたんです。ウインドレス鶏舎っていう、ケージ飼いの養鶏場をはじめて見たんですよ。それまで、そういう養鶏の現場をまるで知らなくて、もう、お化け屋敷のようなところに、ニワトリがぎゅうぎゅうに詰めこまれている光景に、なんか、倫理的にどうなんだろうって、僕は若かったせいもあって、疑問を感じてしまったんですね。
 あの、いまは少しちがうんですよ。ケージ飼いに対しても、そのおかげで、僕たちは安く卵、食べものを手に入れられるという事実があるわけで、一概に否定はしていないんです。戦後まもなくのころなんて、食べものがロクにない時代に、近代養鶏で効率を高めたから、みんなが、卵という動物性のタンパク質を摂ることができた。そんなことも知ったから、一方的にケージ飼いにアンチではない。ただ、いま、スーパーマーケットにいけば、卵一パック二百円ほどで買うことができる、その奥にあるストーリーは、多くの人に知ってほしいと思っています」

変なやつ

「十年前の修行時代、EUではケージフリー運動というものがあって、二〇二五年までにケージ飼いを撤廃しようとしていました。ケージ飼いはいかにも倫理的じゃないと。動物、家畜だけれども、ちゃんと生きる権利があるというのは、僕もおなじ感覚、考えだった。それは、僕がそうなんだから、日本でもきっと馴染む、わかってくれる人はたくさんいるだろうと思いました。調べてみると、京都では美山というところが、平飼いのメッカみたいな場所で、四軒ほど平飼いの養鶏場があって、そのひとつの門を叩いて勉強させてもらったんです。
 研修のときは、住まいは提供してもらえたんですが、基本的には無給です。貯金を切り崩して生活していました。それで、独立を計画しはじめたときに、空いてる鶏舎があるからやってみるかと声をかけられたんです。最初、二百羽ではじめました。でもね、卵がぜんぜん売れないんです。いまでこそ、アニマル・ウェルフェアはニュースでも取りあげられるくらい、ひとつのイシューになっていますが、そのころは、ほんとに「ア」の字もなくて、僕が平飼いについて、説明すればするほど、変な奴あつかいなんですよ。スーパーで店頭販売したときも、僕がそればかり言うものだから、まるで売れない。
 毎月、赤字でした。美山は、人里離れたところなので、車で一時間ほどの園部というところのスーパーで深夜のバイトをしながら食いつなぎました。食いつないだといっても、バイト代はニワトリの餌代なんですが。二十七歳で、まわりは社会人の四年目で、そろそろ一人前にお金を稼ぐようになっているし、正直、もとに戻りたいと思うこともありました。精神的にきつかった。でも、一年、二年が経って、卵も売れるようになり、お金が少し残るようになった。バイトもやめられた。ああ、やっとつづけられそうだなと思いました。
 そうして、三年ほどが経ったんですが、今度は卵が足りなくなった。ニワトリを増やさなくちゃというので、場所を捜して、ここが見つかって移転したんです。二〇一七年のことです」

おいしい? 実はね……

「お客さまはミスリードしていて、ひらがい卵だからおいしいと受けとめているんですね。いや、たしかにおいしいんですけど、そうじゃないんだよなっていうのは僕のなかにあるんです。でも、アニマル・ウェルフェアがどうこうなんて、お客さまにいくら話しても、なにも変わらない。平飼いが、ひらがい卵が普及してほしい、多くの人が手にとってほしい、それなら、おいしいって思ってもらうだけでもでいいじゃないかと、僕は考えを変えたんですね。
 養鶏をはじめたときは、NPOとか社会起業家みたいに見られていたんです。ニワトリがかわいそう、ばかり口にするから。そもそも、ボランティアとか社会起業家っていう言葉は、僕はあまり好きじゃなかったし、助成金や寄付金などで運営する慈善事業のようなかたちでは、これを継続していくことは難しいだろうと思います。やっぱり、いまの世のなかで、なにかを広めようとするなら、そのなにかに値打ちがあると判断してもらうことがいちばん大事じゃないかと。
 ほんとに、おいしいと言って食べてくれればそれでいいんです。そのために、餌も工夫したりしているわけだし。それで、お客さまに、おいしい、なんで? って訊ねられたときには、実はね、っていうふうに話をしているんです」

もしも昔の僕に戻ったら

 毎朝五時に起きて、支度をし、二歳と三歳の子供たちといっしょに食事をすませて七時に保育園に連れてゆく。会社には八時に到着。午前中はたいては鶏舎での作業。午後になると配達に出て、夜七時くらいに戻ってきて事務作業。配達のない土曜日は、鶏舎のまわりの草刈りや、給水用の貯水タンクを洗ったり、鶏糞を出したり。やらなければいけないことが無限にある。いつも、帰宅して夕食をとり、九時すぎにはくたくたになって寝てしまう。
 岡さんは、日常をそんなふうに説明してくれた。成すべきことを見つけて、それを成し遂げていく過程に人生という言葉をあてるなら、岡さんはたしかに人生というものをつくっているのだと思う。
「昔の僕に、将来は養鶏の仕事をしているよと言ったら、そんな馬鹿なってこたえたはずです」と岡さんは言った。そして、「でも、昔の僕に戻ったとしたら、もう一度、同じ選択をすると思う」とつけくわえた。
 途上国支援はどうなったんですか、と冗談めかして訊くと、岡さんは照れて笑った。
「養鶏で村おこしがすごく流行っちゃったんですよ。JICAの人たちもみんなやりはじめた。だからもう……僕がやらなくてもいいかなって。日本で平飼いを普及させるパイオニアになる方がやりがいもあるし」

Photo/Yuko Aoki