「心配する子どもだったんです」
 山田一貴さんは、すこし間をおいて、ちいさな声で言った。
「鉛筆を使っていて、この木はどこから来るのだろう、いつか木がなくなっちゃうんじゃないかと」
 京都府の東南端にある南山城村。三重県、奈良県、滋賀県に接して、山に囲まれた、その、やまあいの谷をながれる木津川に沿って、ふるいかたちの家屋がぽつりぽつりとならぶ集落から、山坂をあがったところに、キノコノ山田さんの圃場があった。一棟のビニールハウス、それをゆるやかに取りかこむように、しいたけ栽培の原木が伏せおかれた雑木林。
「オゾン層が破壊されるとか、酸性雨が降ってくるとか、そういうはなしを小学校高学年のころにすごく聞かされて」
 たっぷりの泥でよごれた靴やあちこちに木屑がついた上着、仕事ようのくたびれた格好だったけれど、きちんとたたんだ紙をしずかにひらき、ていねいに伸ばすように話す山田さんの言葉が、なにか不釣合いなぶん、くっきり聞こえた。

アメリカで微生物を学ぶ

ハウスの大きさは約2アール。年間5000本から6000本のしいたけを育てている。資材メーカー勤務時代の技術をいかして、自作の灌水装置が備えられている

「南山城村に来たのは30歳のとき。今は9年目になります。
 出身は愛知県の犬山市です。ふつうの会社員の家庭で育ったんですが、高校時代から、農業をやりたいなと漠然と思っていました。ただ、進学校だったこともあって、前提は大学受験、農業関係の研究者になろうかと。バイオテクノロジーが話題になったころでした。
 大学は、第一志望校の受験に失敗して、アメリカのオクラホマ州の大学に進みました。そのあとアイオワ州立大学に転学。微生物の勉強をしたかったんですが、日本ではそういう大学をみつけることができなかったんですね。
 アメリカでは、日本ほど専門的というふうではないんですが、土壌微生物を学んだり。たとえば、有機農法と慣行農法を比較して、ある特定の属の微生物の遺伝的多様性が生育にどう影響するのかという研究をしたり、あたらしい土地にあたらしい作物を導入する、オクラホマの気候にこの作物があうのかどうかを調べたり、そういうことに興味をもっていました。
 日本に戻ってきたのは、やっぱり空気があうというか食べものがおいしいというか……大学では、持続可能な農業についてかなり勉強をしたんですが、この分野は日本が本場、有機農業や持続可能な農業にたいする意識のたかさやニーズって、日本のほうがあるように感じたんですね」

原木しいたけにめぐりあう

就農して2年目、つくりすぎてしいたけが山積みになった。大晦日の夜もパック詰めの作業はさすがにしんどかったそうです

「学生時代は、自分で農業をはじめることは、ハードルもリスクもたかいので、あまり考えなかったんです。それよりも企業で農業分野の仕事をしたほうがいいと思っていました。
 長野の青果卸の会社に就職して、そのあと、東京の農業資材メーカーに転職しました。でも、20代の半ばに、やっぱり農業がやりたいなと思うようになったんです。それで作物をなににするか、トマト、イチゴ、露地の枝豆、トウモロコシって考えていたときに、しいたけに出会った。たまたま茨城の農家さんにもらった原木しいたけがすごくおいしくて感動したんです。これだと。
 その茨城の農家さんのところに、会社勤めをしながら週末に1年半、会社を辞めてから2年くらい、研修に通いました。研修中、原木しいたけは、つくるのはきつい、むずかしいといわれました。重労働ですし、原木も手に入りにくくなっている。栽培している人たちも高齢化してやめる人たちが多い。ただ、そのぶん、希少性はあると感じました。だから、つくることさえできれば、それで暮らしはなりたつという目算はありました。
 ほんとうは関東で独立する予定だったんです。ですが、東日本大震災があって、ほかの場所をさがすことになりました。岐阜のしいたけ組合に電話をかけて訊いてみたり、四国の地域おこし協力隊とかも考えたんですが、この南山城村に土地と家がセットで見つかったので、わりとすぐにここだと決めてしまいました」

土は難しい、でも、木もたいへん

今の圃場は、南山城村で2か所目。以前の場所は、陽射しが入らなくてハウスが暖まりにくく、水が少ないこともあって、移転した

「1年の仕事は、12月から1月、2月で原木になる木を伐採して、3月から5月のかかりくらいまで植菌といって菌を植える、原木に菌打ちをしてから、山のなかに伏せ込みをします。仮伏せ、本伏せといって、寝かせるわけです。そこから秋までは少し時間があるので、キクラゲをやったりしています。しいたけは周年で出荷していますが、秋になると量が増えてくる。そうしてまた冬になる。そんな感じです。
 きついのは伐採です。山のなかに入っていって、道のないところは、細い道をつくって、木を切って、クローラ運搬車というので運んでくる。時間がかかるのは出荷作業ですね。収穫とパック詰めは妻が手伝ってくれて、道の駅にも持っていってくれますが、それでも結構大変です。
 天候にもかなり左右されるんですよ。伐採なんかは雪が降るとできないですし、低気圧がきたりしたら、しいたけが大きくなったり、夏は暑すぎて、いくら水をまいても乾いてだめになったり。
 大学のころ、微生物はあまりにも複雑で、人間のちからではどうしようもないと思いました。あたらしい土地で就農して、そこの土をどうにかして、つくりたいものをつくるというのは難しいと。土壌に関して、化学と物理学は進んでいるけれど、生物的な面がほんとうにわからない。いろいろな論文を読んでみても、それがその土地で再現できるかどうかは、やってみないとわからない。そう思ったから、土壌をつかわない、原木しいたけをやっているのかもしれないですが、それでもむずかしい。しいたけの菌の性質は、菌床栽培のように同じ条件でくらべることで明らかになっている部分があるから、目指すところはわかっている。でも、それを自然のなかでとなると、かんたんにできることではない」

山を守りたい

帰り際、とれたての原木しいたけを焼いてくれた。かるく焼いて、塩をふるだけ。これまで食べたなかで、いちばんおいしいしいたけだった

 毎朝7時に起きて、8時に圃場にやってくる。まず収穫をして、それからパック詰め、出荷作業。午後には木を動かしたり、発生の仕込み。夕方にはスーパーへの出荷。夜7時すぎに1日の仕事がおわる。秋から冬はそんな様子と、山田さんはいった。土曜も日曜も祝日もない。休んでしまうと、次の作業がふえて、かえって疲れてしまうから。
 その言葉を、足をとめると滑り落ちてしまう、誰かが踏み固めてできた道がどこにも見あたらない、起伏のおおい斜面を歩くような毎日、生活なのだろうかと思いながら、しかし、それは、山田さんにとって、満ちたりた気持をもたらしてくれるもののようにも聞こえていた。自分でえらんだ、歩んでいること、踏みしめていることを感じる足どり。おそらくは幸福な一歩。そのつみかさねとしての日々、暮らし。
「SNSなどで、きのこ屋さんの交流が増えてきて」
 どこに向っているのかを訊ねると、山田さんはゆっくりと言った。
「みんな、うまく木を使いこなしているんですね。自分は、1本の木からとれるしいたけの量がすくない、木の潜在能力を引きだして最後まで使いきることができないので、時間をかけて学びたいと思っています」
 間をおいて、山田さんはつけくわえた。
「原木が手にはいりにくく、山を守りたいなっていうきもちが芽生えてきて、最近、どんぐりをひろって植えたんです。苗をつくって、伐採が終わった山に補植する。コナラが少ないところもあるので。この村でも植林をしている人がいるんですが、それを見ならって。自分でできるとりくみをしていこうと思います」

●Photo/Yuko Aoki