夢を叶えた、そんなふうに思うときがありますか、と訊ねると、ふたりはたがいに顔を見あわせた。
「この道にすすむことができたなとは思いますが、もう、毎日、必死にもがいているので、夢が叶ったとまでは」
 周男さんがそう言うと、亜子さんはこうつけくわえた。
「小さな果樹園ですけれど、やっぱり思ったようなかたち、大きさの果物ができると、達成感、充実感はあります……山にかこまれたところで暮したいという夢は実現したのかな」
 長野県の東部、軽井沢と松本を線でむすぶと、ちょうど中間に位置する上田市。その西南に広がる塩田平と呼ばれる河岸段丘を一望する高台に、坂上周男さん・亜子さんの営む〈坂の上の果樹園〉がある。山森と市街地のあいだの緩衝地のような二・六ヘクタールの畑で、りんごとぶどうを育てている。
「小さいころからよく食べていた、大好物のりんごをつくりたいと思ったことが、はじまりだったんですね」

プランなんてなにもなかった

「僕は静岡の富士市という、それこそ富士山が真っ正面に見えるところの生まれ育ちなんですが、母が県の土木事務所で働いていたんですね」と周男さんは言った。「それが関係したのかどうかはわかりませんが、大学と大学院で森林科学を学んだんです。
 卒業後は、JICAなどから業務を請け負っている農業土木コンサルタンツに就職しました。サラリーマンですよね。あまり納得はしてなかったんですが。オフィスは東京でしたが、アジア、アフリカの各地で滞在を繰りかえしていました」
「私は埼玉の出身です」と亜子さんは言った。「いつも里山が身近にありました。両親は非農家なんですが、祖母が畑をしていて、その手伝いをするのが好きだったり、父は休日には山に絵を描きに行っていたのですが、私も一緒に連れて行ってくれて、父の傍らで植物や昆虫に触れたり。自然にかかわる仕事がしたいなとは、ずっと思っていたんです。それで林学に進みました。
 仕事は東京や新潟で、環境系のNPOや財団で働いていました」
 ふたりの出会いは大学時代。結婚は二十九歳のとき。
「まわりからも言われて、もう、そろそろかな、っていうね」結婚後のプランなんてなかった、とふたりは笑った。

りんごをつくってみたい

 なんとなく農業の方に進んでいった感じです、と周男さんが言うと、亜子さんは頷いた。
「コンサルでは、現地に行って、データを集めて、分析して、こんなことができますって計画を立案して、実行する、みたいな仕事をするわけです。それでミャンマーに四年ほど行ったりしていたんですが、これをずっとつづけるのかと思いはじめて、じゃあ、なにをしたいんだってことで、少しずつ、だんだんと農業に向けて舵を切っていったんです。
 いきなり農家として独立するというふうには、考えていなかったですね。農業の生産法人につとめて、それから農家さんの道に進めれば、くらいに思っていました」
「子どもが生まれたばかりで、やっぱり生計を立てなければという前提があったので」
 そうして、ふたりは愛知県の岡崎市に移り住んだ。仕事先は養鶏場だった。けれども、どこか心は落ち着かなかった。
「いまも覚えています。夏のある日に、ちょっと俺、ここは辞めて、なにかつくってみたいなという話を亜子さんにしたんですね。それで、じゃあ、自分はなにをつくりたいのかと考えたときに、りんごをつくってみたいと思っていることに気づいたんです」

信州へ

「りんごというと東北のイメージがありますが、出身が静岡と埼玉でしょ。僕たちはふたりとも、ひとりっ子だし、いきなり東北地方っていうのは、すごく遠い感じがして、それなら信州かなと。旅で何度か訪れたこともあって親しみもありました。
 それで長野県の県庁の方にヒアリングに行ったら、さっさと話が進んでいって」
「とんとんとん、とね」
「当時、長野県庁には、農業の担い手育成のようなセクションがあって、それで坂上さん、どんなビジョンを? みたいな話から候補をいくつか挙げていただいたんです。第一希望が、子どもがいるから日銭を稼げるところで学べればというので、上田市の農協の子会社、信州うえだファームというところを紹介されました。放棄される園地を、その会社が一旦引受けて、新規就農者や担い手に貸し出したり、受け継がせるということをしていた」
 果樹園も、農家さんの高齢化や、ビジネスとして成立させるのが難しいのでしょうかと訊ねると、亜子さんが、そう、と言った。
「そういうケースが多いようです」
「そのほかに、樹木の高齢化でやめたり。木も老木になってくると、品質が落ちてくるんですね。そうすると、じゃあ、このあたりでやめちゃおうかっていうことになる、そんな話も聞いたことがあります」
 三年半の、農協での農業研修や里親研修を経て、ふたりは二〇一五年に独立した。

お百姓さんになれない

「果樹は、ゼロからすぐにはじめられるものではないので、農協や里親さんをつうじて、成園を借りてのスタートです」と亜子さんは言った。「里親さんの力を借りて、苗木を植えたり、接ぎ木をしたりして、古くなった園を更新していくみたいなかたちでやっていきます」
「でも、なかなか思い通りにはいかないですよ」と周男さんは言った。「人に恵まれて、ようやくできている感じです」
「果樹は、はじめて十年はきびしいと言われていて……私たちは、なんとか八年が経ったんですが、研修させていただいた里親さんたちにたくさん助けてもらいました」
「僕らのお師匠さんとか、折に触れて手を差し伸べてくれる農家さんたちを見ていると、みんなお百姓さんなんですよ」と周男さんは言った。「ちいさいときから畑に馴染んでいて、もう、なんでもできる人たちなんですね。それにくらべると、僕らはやっぱり農業者なんだなっていう違いを感じます」
 どういう意味ですか?
「智慧もなくて、応用も利かない、そんな感覚があります」
 それでもなのか、だからこそなのか、自分たちにできることをふたりは考えた。そのひとつが、特別栽培農産物(化学合成農薬の成分使用回数、化学肥料由来の窒素成分量が栽培地域で慣行的に使用されている量の半分以下のもの)というかたち。
「有機栽培、オーガニックは難しいんです」と亜子さんは言った。「無理をすることになるし、かえって木の寿命を短くしたり、駄目にするリスクも大きい」
「うちは、認証を取っていない畑もあるんですが、すべて特裁の基準で育てています」周男さんが言った。「僕も亜子さんも、バックグラウンドは森林の分野です。森の木って、肥料も農薬もない状態で生長していくじゃないですか。果樹園もそんなふうにと考えているんです」
「果樹園のなかにも当然生態系があります。不必要なことはしないで、自分たちがしっかり寄り添ってやっていきたいなと。虫好きがここでいかされていますね」亜子さんは笑った。

坂の上の……

 十二月。
 毎日、林檎の収穫と出荷作業に追われる。作業場には、きれいに箱詰めされて、発送を待つ林檎が、たくさん並べられていた。
 作家・司馬遼太郎に『坂の上の雲』という作品がある。明治のはじめ、西欧に追いつこうとする日本のすがたを描いた物語。日本が憧れた、夢を見た、その雲は坂の上にあって、坂を上がり、手を伸ばせば届きそうに見える。おそらくは、そんな意味の込められたタイトル。
「よく、そう言われるんですけど、〈坂の上の果樹園〉は、単に名字と景色から付けただけなんです」
 周男さんは笑って言った。
「夢というなら、果実を手にする人たちに、笑顔と感動も届けたい、それだけですね」

Photo/Yuko Aoki