「茶葉の、旨みと甘みを感じてみてください」
 沸かした湯を黒く厚みのある茶杯へと静かに注ぎ、林さんが言う。
「はじめ低温で、二煎目から徐々にお湯の温度を上げていくという淹れ方をします。低温だとお茶の渋みや苦みの成分が溶け出しにくく、そのぶん、旨みや甘みが引き立つんです」
 細く長い指で茶杯を包み、温度をたしかめる。湯は、器の外側に熱が伝わったところで、温度がだいたい十度下がるという。そうして、湯を一つの茶杯からもう一つの茶杯へと二、三回うつす。
「さて、このくらい冷めたら淹れよかなという感じですね」
 急須に新茶の茶葉を入れ、葉の少し上あたりまでゆっくりとその湯を回しかける。しばらくして蓋をあけてみると、茶葉はふっくらとして、やわらかな煎茶の香りが漂った。
 口にふくむと、林さんの言葉のとおり、丸い甘みと、芯のある旨みが広がっていく。
「でもね、淹れ方に決まりはないので、飲みたいようにお茶を淹れてもらうのがいいです。ひとりで過ごしたり、人が集まって、たわいもないことやお互いの近況を話したり、お茶がそうした時間に寄り添えたらいいなと思います。
 このお茶は少しずつ味わいが変わって、十煎目くらいまでいただけますよ。もう一杯どうですか」
 山手の窓辺には、白い紫陽花が一輪咲いていた。

風と生き物の音がにぎやかに

 新茶の収穫が終わり、茶園の忙しさも少し落ち着いた六月の下旬。京都府南部、宇治市よりさらに南東に位置する和束町の〈製茶房嘉栄〉に林嘉人さんを訪ねた。
 和束町は茶源郷と呼ばれ、古くからつづくお茶の産地。鎌倉時代から栽培が始まったと言われ、江戸時代には皇室のおかれていた京都御所にもお茶を納めていた。今もその栽培は盛んで、三大銘茶として知られる宇治茶の主産地になっている。町の中心には和束川が流れ、それを挟むように、一本一本、筆で描いたような線が並ぶ、茶畑の緑に覆われた山々が起伏をつくる。水もち、水はけの良い土壌、そして、昼夜の大きな寒暖の差が生み出す霧によって、香り高いお茶が育まれている。

 穏やかに笑って、林さんは出迎えてくれた。
 トラックに乗り込むと、車は少し走ってから山道に入った。途中いくつもの茶畑を通り過ぎながら、くねくね曲がる狭い道を上り、また上る。車を停めたのは、山の頂上を越え、少し下りた辺り。彼の茶畑は、木々に囲まれて、そこにあった。
「ここにいると、透きとおるような、空っぽになるような感覚があります」
 やわらかな口調で、林さんは言う。
 私たちは、しばらく一緒に耳を澄ました。鳥の声。虫の羽音。風に揺れる木々の葉。静けさのなかで、生き物の音がにぎやかに響いている。

いのちがめぐる、お茶づくり

 林さんはこの和束の町で生まれ育った。小さいときから、近くの山で遊ぶのが好きだったという。学校から帰るとすぐ山へ向かい、野いちごや食べられる野草を探したり、木々のあいだを探検したりしていた。 
 けれども、野山でのびのびと遊んでいた彼は中学三年生のとき、大病を患った。入院生活が長くつづき、二年遅れで高校へ。二十歳で高校を卒業したときに、茶農家になることを決め、家の茶畑を手伝いはじめた。
 実家の畑では、当時、周りではほとんど行われていなかったお茶の有機栽培に、少しずつ取り組み始めていた。彼が手伝うことになり、さらにその畑地を拡げていった。

「自然のなかで、生き物に囲まれて、お茶の樹を育てたい、そうしてできたお茶を飲んでもらいたいと思ったんです」
 生死に関わる病を生きのびたことで、動く身体があること、今生きていることの有難さをつよく感じたことが、彼のお茶づくりの原点になっている。

 まもなく、新茶の収穫が終わると、すぐ翌年に向けてお茶の樹の手入れがはじまる。「余韻煎茶」の茶葉を育てる畑では、一番茶の味を最大限に引き出すため、摘み取った後に伸びてくる茶葉は、土に還すようにしているという。
 五月、一番茶のあと新しい芽が出てくるよう、枝葉を深く刈り込む、一つひとつ樹勢を見ながらの作業。六月を過ぎると畑の雑草が伸びてきて、夏のあいだは草刈りに追われる。九月、十月は、玄米茶にする茶葉が育つ畑に油かすを撒いたり、勢い良く伸びてきた枝葉を揃えたり。冬には畑のまわりの土手や道を直す作業を。そしてまた、茶摘みの季節がやってきて、辺り一面が新緑の色に包まれる。

きょうも、茶畑へ

 生きることそのもの、というように、お茶をつくり育て、二十年近くが経ち、茶農家の五代目を継いだ。和束町の、山の斜面のあちこち、十数か所に点在する茶畑へ、春、夏、秋、冬、来る日も向かう。
 休みの日には何をしているのかと訊いてみると、彼の口から出てくるのはお茶のことばかり。美味しいお茶が飲める店を訪ねたり、お茶の道具を見に行ったり、自分の育てたお茶を使うレストランで食事をしたり……。

「山のいのちがめぐるこの場所で、こうしてお茶をつくらせてもらっているというのは有り難いことです」
 茶畑に立ち、ありのままにそう話す彼の言葉を聞いていると、まるでそこは楽園のようにも思えたけれど、同時に、日々の鍛錬の場であるようにも感じた。彼は自然の摂理のなかで、淡々と、その茶畑で起こることを受け入れ、お茶を育てていた。

 林さんのところを訪れてから、いくつかの季節が過ぎた。
 春の陽だまりのなか、煎茶を淹れる。一服、余韻のなかに、心地よい風が吹く、山の茶畑の景色が浮かんだ。そろそろ新茶の季節がめぐってくる。

 

text/Moyuru Takeoka

 

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