「帰り道に、明石海峡でね」咲さんがそう言うと、雄太さんはそうだねとうなずいた。
「淡路島に住もうって、直感した」
ふたりが、東京をはなれて、どこかべつの土地で暮そうときめたのは、そのひと月まえのことだった。
「街に愛着がもてなかったのと、仕事にもストレスがあって鬱のようになってしまって、彼女に、仕事をやめたいんだけどって相談したんです」と雄太さんは言った。
「私は、やっとその話が来たかと思いました。見ていて、すごく辛そうだったので」と咲さんは笑った。
淡路島のほぼ中央に位置する洲本市を縦にはしる県道六六号線を、五色町で逸れ、そこからくねくねとまがるなだらかな坂道をすこし行くと、三崎咲さんと雄太さんご夫婦が営む、〈島ノ環ファーム〉の畑がみえてくる。濃い緑いろの、屏風のようにひろがる小さな森とほそい道路のあいだの、それほど広くはない、くぼんだ土地をていねいに耕したタマネギ畑。道路をはさんで反対側、傾斜地の小高くなったところに、石塀でかこまれた、母屋とはなれ、そのあいだに庭のある古い民家が、作業場と住居になっている。
農業の「の」の字もなかったんですよ、とふたりは声をそろえて言った。
「東京の板橋区の出身です」と咲さんは言った。「車の排気ガスがすごくて、光化学スモッグ注意報が発令されたり、ぜんぜん緑のないところです。
子供のときに、歴史の授業で、縄文時代とか弥生時代の人たちの生活、自分の手で食べものも衣服もつくっていたことを知って、そのときから、人間って、どうしてこんなふうに退化しちゃったんだろうって思っていました。だからか、第一次産業に憧れたんですね。漁業や農業、食べものをつくる仕事、なんでもできる人って格好いいなって、すごく興味がありました。いろいろなものが溢れかえる都会に生きていたので。
でも、農家になりたいとは思っていませんでした。高校は志望校の受験に失敗して、すべり止めの農業高校に行ったんですが、ほんとうにそれはたまたまなんです。在学中は、うちが非農家だということがなにか恥ずかしくて、ネットで調べて、茨城の玉造町の自然栽培の農家さんを見つけて、土曜日にちょっとしたお手伝いをさせてもらったりもしたけれど、それはたんに農業を知りたいなと思っただけで……。
東京農大にすすみましたが、部活と、旅をするのが好きでいろいろな国を訪れたりするばかりで、将来のことはぼんやりとしていました。一応、就職は決まっていたんですけど、卒業の間際に、国際農業者交流協会っていう団体が主宰している、海外での農業研修に応募したら受かってしまって、卒業後、スイスに行って、農家や民宿で働くようになりました」
「生まれは大阪ですが、育ちは東京の練馬です」と雄太さんは言った。「子どものころは、親が、僕を連れて地域の活動をしたり、植林にひっぱりだされたりで、大人と付合うことが多かったんです。父の仕事の関係で二年間ドイツにいたこともあって、まわりの子たちとはすこし感覚がちがうようでした。
大学では微生物をやろうと思っていたんです。ただ、希望していた大学には落ちてしまって、東京農業大学にすすみました。醸造学部。農化学なのでフラスコの方。お酒とか納豆とか、発酵という部分では農業に近いんですが、在学中は、まったく土に触れていないんです。
卒業後は、香辛料の会社に勤めました。大阪本社の勤務です。結婚もして、大阪で暮していたころは、池田市という場所もよかったし、仕事も、すごくきれいに回っていたので、ああ、ここで、このまま過ごしていくんだと思っていました。
そのまま大阪にいられたら、農業はやっていないと思います。いまもサラリーマンをしていると思います。妻は、休みの日にアグリイノベーション大学校という農業スクールに通ったり、四国の農家さんのところへ行ってみたり、ガスは抜いてた。ほんとうは農業やってみたいっていうガスを。でも、それで満足してくれてたし、僕も、会社勤めは、仕事もできるようになってきて楽しかったんです。それが、急に異動をいわれた。会社は、僕も妻も東京出身なので、よかれと思ったのか、東京に転勤になったんです。そこから、こう、濁っていったというか、歯車が狂った。
転勤なので、一週間以内に家を決めてこい、みたいな感じで、住まいを無理やり決めるじゃないですか。大阪時代は、駅に着いたら、家に帰ってきた、みたいな感覚があったんですよ。心地良かった。でも、東京勤務は、家は、もう寝に帰る場所でしかなかった。仕事も、関西のほうが空気が合ってたんですね。しゃべりやすかった。だけど、東京は、職場の空気がちょっと悪かったり、コミュニケーションも取りづらくて、なんだか全部が負にまわったんですね」
雄太さんが退職を決めた二〇一六年の十月、東京・有楽町の国際フォーラムで、ふるさと回帰フェア(移住や地方暮らしをテーマにした催しで、全国各地の自治体や団体がブースを設け、移住相談ができるイベント)が開催された。ふたりには、東京をはなれよう、西にもどろうという、どこか本能に根ざしたような感覚があって、フェアに足をはこんでみたところ、淡路島の洲本市を知ることになった。翌月の十一月には、一泊二日の移住体験のアテンドをうけることになる。
そのとき、ほんとうに移住されるのならということで、具体的に仕事の紹介をされた。雄太さんには、三年間、役場の農政課で地域おこし協力隊ではたらいてみてはどうかという話、咲さんには、農業研修の受入れさきの農家さんを見つけましょうという提案。
そんなふうにして、ふたりは明石海峡を渡った。
「不安はなかったですね」と雄太さんは言った。
「農業ができるっていう歓びのほうが勝ってて、将来のことなんてほとんど考えていなかった」と咲さんは言った。「やりたいことは決まっていたんですよ。まずは養鶏。私、玉子を食べたあとの生臭みがすごく嫌で、自分が食べたい玉子を産んでくれる鶏を育てるのが、いちばん最初にやりたいことでした。大学を卒業したあとにスイスに行ったのも、養鶏を学びたかったからです。平飼いの玉子しかないような国なので。そんなこともあったし、だから彼が退職を決めてから、ふたりで、いろいろな養鶏農家さんを見にいったりしていたんです」
「女性ひとりで四百羽くらいを飼っているところがあったり、無理ではないんだと感じました。養鶏、玉子は毎日出るものだから、収穫期に一度に収入を得る作物より、生活の目処が立つだろうという目算もあったし、淡路島産の餌で育てればブランド化できるおもしろさもあった」雄太さんは言った。
「養鶏がとっかかりになったので、もうひとつの柱としてタマネギをえらんだんです。私の研修先の農家さんが、自然栽培で、大規模にタマネギをされていて、そのタマネギがすごくおいしいんですよ。あ、これは私たちもやりたいねって」と咲さんは言った。
おいしいものをつくりたい気持がつよかったのですかと訊ねると、雄太さんは、ちらと、困ったなという表情を浮かべた。
「自分たちがおいしいと感じるものを、同じ感覚で、おいしいと思ってくれる人たちに届ける、そんな感じですね。なにかと比較するとか、淡路一おいしいものを、という考えはないです」
「おいしさって主観に左右される、共通の物差しがないものだから、お客さんに判断してもらうしかない」と、つけくわえるように、咲さんが言った。
「糖度競争ってあるじゃないですか。僕は、あれが嫌いなんです。甘い野菜ってすごく気持ちわるいです。甘さがそんなに必要なんだったら、砂糖舐めたほうがいいというか、メロンみたいなタマネギが欲しいのなら、メロンを食べればいい」
「私たちが農薬をつかわないのも、自然栽培の、農薬を使わないタマネギがおいしかったからという理由はありますが、それ以上に、使わなくても育てられるのなら、使わなくてもいいんじゃないっていう考えなんです」咲さんは言った。
「農薬反対っていうのではなくて、無農薬でできるならそれでいい、くらいの感じです」雄太さんは言った。
ふたりのもとを訪れたのは、三月、ゆるやかな春のはじまりをしらせるような風の吹く日だった。そこは、静かで、時間のながれがゆっくりとしていて、落ちついているさまをいう、長閑という言葉がぴたりとはまるようなロケーションで、まわりに人のすがたはなく、行き交う車もない。県道まででれば、いくらか車ははしっているけれども、それは街から街へと移動する、ここを通り過ぎていく車ばかりだった。
作業の手をとめて、畑で、作業着のあちこちについた土や泥の汚れを気にするでもなく、愉しそうに言葉をかわしているふたりの姿は、求めていた暮しを手にした悦びが目にみえるようだった。
「これからが大変だと思っています」と雄太さんは言った。「このままだと不味いなって。人がいなくなって、集落のシステムが機能しなくなる。
たとえば、淡路は水がないので、農業はため池を利用しているんですけど、むかしは、ひとつのため池の管理を二十人くらいでできたんですが、いまは四つのため池を十人でやらなければいけない。しかも高齢化がすすんで、作業がきつくて無理だという人もいる。道路もそうですし、ちかくの川も、行政がすべて面倒を見てくれるわけではないので、自分たちで管理していかないといけない。農業の先ゆきはあると思うんですが、生活をする場所としての不安はあります。いまのままだと、五年先、ここで暮しを営むのは難しいかもしれない」
「子供たちは、ここにいる必要はないと思っています」と咲さんは言った。
「僕たちは、故郷を棄ててきたわけだし」と雄太さんがつけ加えた。「一度は、そとに出たほうがいい。それで、戻りたいと思えば戻ってくればいい。そのときに、戻ってきてもおもしろいな、という場所にはしておきたいんです」
Photo/Yuko Aoki