vol.18

1

ニャム・バーイ・ハウイ?
ニャムは食べる、バーイはごはん、ハウイはもう。
もうごはん食べた? カンボジアでは、おはよう・こんにちは、よりも耳にした言葉です。

2

今から15年ほど前の話です。
私は大学で文化人類学を専攻し、カンボジアの農村で伝統染織についてフィールドワークをしていました。
村を歩くと、すぐに、ニャム・バーイ・ハウイ? と声をかけられます。まだ、とこたえると、じゃあ寄っていきなよ。
私が外国人だったからとくべつよく誘ってくれたのだとは思いますが……村ではお昼ごはんとおやつはボーダレスで、お昼どきに家族が帰ってこなくても、まあどこかで食べているんだろうというふうでした。

3

朝は、あっさりしたおかゆ、クィティウという米麺、きゅうりやトマトのサンドイッチなど──かつてフランスの植民地だったから小さなフランスパンがよく食べられます。お昼ごはんと夕食は、大きなどんぶりに盛られた白ごはん、おかず、スープをみんなで囲みます。取り皿にごはんをよそい、おかずを汁気ごとスプーンですくって──こぼしそうでヒヤヒヤします──ごはんにかけていただきます。おかずとスープのバリエーションはとても豊富。魚、肉、卵、きゅうり、ナス、トマト、玉ねぎ、しょうが、たけのこ、豆腐や春雨、南国らしく空心菜やゴーヤ、青いパパイヤやマンゴーもよく使われます。

カンボジアには東南アジアでいちばん大きな湖・トンレサップ湖があって、淡水魚が一般的な食材。塩漬けにした魚の干物のトライ・ンギアットはものすごくごはんがすすみます。お肉は、鶏と豚がよく食べられていて、私は、ゴーヤに豚ひき肉を詰めて煮込んだスガオマリャッや、甘辛いタレに漬け込んだ豚肉を焼いて白ごはんにのせたバーイ・サイッチュルック──家庭料理というより屋台で食べるもの──が大好きで、日本に戻ってからもつくっています。
味付けにはプラホックが欠かせません。トンレサップ湖とその周辺の川で獲れる魚を塩漬け・発酵させてペースト状にしたもの。プラホックつくりのシーズンの乾期は、湖の周囲数キロに匂いが漂うといわれています。村の人がはじめて見せてくれたとき、あまりの臭さに礼儀を忘れそうになってあたふたしました。でも、この強い匂いが料理に不思議と馴染み、コクが出て味がピシッと調います。
プラホックのほかにも、トゥック・トライという魚醤やココナッツミルク、こしょう、それからレモングラス、タマリンド、パイナップル、ライムなどの酸味のあるものもお料理によく使います。ソムロームチュー〇〇(〇〇入りの酸っぱいスープ。ムチューは酸っぱいものの総称です)はカンボジアの代表的な家庭料理のひとつです。

そして、いまも私が恋しいのがおやつ。暑いカンボジアでは、おやつの塩分、糖分、水分補給はとても大切です。
甘く味つけしたもち米で、塩味の小豆を包み、バナナの葉で包んだちまき。焼きバナナや揚げバナナ。タピオカミルク。クレープのようなロティ。ココナッツミルクのぜんざい。かぼちゃプリン。刻んだ唐辛子と塩を砂糖を混ぜたジャリジャリのタレをつけて食べるタマリンド。さとうきびやライムのジュース。
家でつくることも多いですが、屋台がやって来たりもします。昼下がり、機織りの手をとめてちょっと一服。

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カンボジアで食べたもの、どれも美味しかったといいたいのですが、食べられなかったものもあります。
ひとつはポンティアコーン。孵化する直前のあひるの卵を蒸したもので、塩胡椒と香草をつけて食べます。栄養たっぷりで大変人気のあるおやつです。
もうひとつはタランチュラ。カンボジアでは昆虫食は一般的なもので、たいていは塩や醤油やスパイスで下味をつけてフライにしたものです。タランチュラはサイズも大きくて、食べ応えは抜群ですが……。
カンボジアに昆虫食が根づいたのは、クメール・ルージュ政権下の食糧難のためと言われています。タランチュラは、ジャングルに逃げ込んだ人たちが土を掘って捕獲したのが最初だそう。最近では、森林破壊の影響でその生息地が減少していることが問題となっています。
どちらも、私は見た目がどうしても苦手で、二度は食べられませんでした。味は意外と美味しいのですが……。

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村にはガスが通っていなくて、煮炊きは家の外につくったかまどで行っていました。食事の支度がはじまると、薪や炭の焼ける匂いと、灰色の煙が薄く漂う。
カンボジアで食べたいろいろなもののことを思い出すとき、そんな風景も記憶のなかから浮かんできます。煤で真っ黒になった鍋からおかずを大皿に移し、竹の床に敷いたゴザの真ん中に置く。おこげのできたごはんはどんぶりによそって、おかずの横に。みんな、取り皿とスプーンを持って、囲んで丸く坐る。
いただきますもごちそうさまもありません。坐った人から黙って食べはじめて、食べおわるとさっさと立ち上がる。あっさりしているなあと最初は思ったものです。誘ってくれたのに。
でも「この子は昨日はうちでごはん食べたからね!」とか「私のちまきを美味しいって言ったよ!」なんて、まわりの人たちに話してくれている。
ごはんの時間は大切、食べるときはさっぱりとしていて、でも一緒にごはんを食べたというつながりはつづく。この感じがカンボジアらしさなのかなと思います。

6

言葉も拙いまま飛び込んでしまったカンボジアの村の暮らし。買い物の方法も、お料理の味つけも、食事の作法も、ものの考え方も、そして生活そのものも、私が日本で身につけたものとは違っている。お近づきになれたところもあれば、余所者のままの部分もありました。
彼ら、彼女らにとっての「あたりまえ」によって、私の「あたりまえ」は揺さぶられる。
食・異文化に出会うこと、身体がそれらに触れることは、まさしく自分の感覚、手や意識が触れることのできる範囲が広がり、思考するときに引っ掛かるところが増えていくような、そんな経験でした。そして、それと同時に、私自身の共感力や想像力の限界に気づかされることでもありました。
「異なる」と感じることの正体を知るということ、自分が引いている「内」と「外」の境界線の曖昧さや危うさに意識的であること、私の生きる世界の「あたりまえ」を更新しつづけること、それをずっと考えています。

●倉田優香