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SDGsという言葉はずいぶんと社会に浸透したようです。Sustainable Development Goals・持続可能な開発目標として、2030年までに世界が達成するべきとされた17の目標、たとえば「貧困をなくそう」「飢餓をゼロに」「海の豊かさ・陸の豊さを守ろう」など、その内容も多くのメディアが取り上げています。
その一方でSDGsに違和感を覚えている人たちもいます。
最近では、大阪市立大学准教授の斎藤幸平さんが、著書「人新世の「資本論」/集英社新書」で「SDGsは大衆のアヘンである」と唱えています。
「SDGsアジェンダに当てはまるようなアクションをいくつかとっていれば、気候変動に対して責任を果たしているといえる」SDGsはまるで免罪符のようになっていると。

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SDGsは2015年9月25日に、ニューヨークの国連本部で開催されたサミットで採択されました。会合に参加された國學院大學経済学部教授(当時)の古沢広祐さんは、「紆余曲折と薄氷をふむようなきわどさをなんども経てきた上で何とかたどり付いた着地点というのが正直な印象であった」古沢広祐『食・農・環境とSDGs』Kindle版 p.209-210 と述べています。

経済や政治や宗教など、あらゆる物事が大きく異なる世界の国々によって合意が形成されるまでには、妥協点の見えない議論、数多くの衝突があったようです。
不十分さはあるかもしれないが、まずは国連総会で193の加盟国の全会一致で合意・採択されたこと自体が大きな成果であると古沢さんは言います。
だとすれば、今考えるべきは、SDGsについてのあれこれよりも、ここに記された目標を前提として共有したうえで、次の一歩をどう踏み出すかということなのかもしれません。

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私にはずっと引っ掛かっていることがあります。
SDGs=持続可能な開発目標という言葉です。ここには、まだこの地球社会を開発していく、発展させていくという前提があるように感じます。
まるで、発展途上国という言葉を耳にしたときのような感じ。これからもっともっと発展していく、今の状態は不満足であるという意志の表明。
開発や発展はほんとうに必要なのでしょうか?

Developmentという単語は、開発・発展・成長という日本語に訳されます。けれども、この言葉は身体の内側の発達という意味でも用いられます。「Develop one’s mind」だと、知性を深めるといった意味。
Developは、必ずしも新たな資源を投入して外に向かって拡大することではなく、内側を充足していく、深めていくといったことも含んでいる。

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社会学者の見田宗介さん──著作家・ナレッジキュレーターの山口周さんなど、近年活躍する方々に大きな影響を与えた──の言葉を思い出します。

“子どもは成長しなければならないけれど、成長したあとも成長が止まらないことは危険な兆候であり、無限に成長しつづけることは奇形にほかならない。まして成長しつづけなければ生存しつづけられないという体質は、死に至る病というほかはない。
成長したあとも成長しつづけることが健康なのは、「非物質的」な諸次元、知性や感性や魂の深さのような次元だけである。社会というシステムに対応を求めるならば、この広義の<情報>の領域というコンセプトによって、今日とりあえずその名を与えられている諸次元だけである。「情報化社会」の理論のうちのこの大きい射程をもった発想がわれわれの前に開いているのは、社会のシステムの、<成長のあとの成長>の可能性についての、このような見晴らしであるように思われる。”
見田宗介「現代社会の理論ー情報化・消費化社会の現在と未来ー」岩波書店 p.162-163

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脱成長という言葉が叫ばれることがあります。
でも、成長のすべてを否定するのではなく、ベクトルをシフトすることもできるのではないかと思います。
坂ノ途中のある人はこのようなことを言っていました。
「あらゆる世界は静的ではいられない。分子生物学者の福岡伸一さんの言葉を借りると、動的平衡の状態にある。一般的な言葉にするなら常に代謝をしている、人も地球も。だから、成長・代謝というダイナミックな状態こそが生きていることで、そのバランスを失ったときに死が訪れる。そして、永久機関が存在しないのと同様に、システムは必ず崩壊するから、死は自明のこと。エントロピーは常に増大するわけだから」

SDGsのターゲットを点としてなぞりながら、これまでと同じような成長曲線を描こうとするのではなく、知性や感性、魂の深さを探求するDevelopment。
無限を求めて外へと拡大していく「成長」から、有限性のなかでの内的な「発達」へ。
それが、SDGsにほんとうに求められているものかもしれません。

●石川 凜