ずらりとならぶ鳥居が、陽射しのもとで、斑に日陰をつくり、朱いろが輝く。
京都の伏見稲荷大社は、全国に三万社以上もある稲荷神社の総本宮として、それから、商売繁盛や五穀豊穣の神さまが祀られていることでも、よく知られています。
神蹟は稲荷山のあちこちにあり、参道をなぞる鳥居のしたの石段は千段を超えるほど。ここでは、巡拝することは「お山する」とよばれています。

ずっと、私は、初詣はお稲荷さんでした。
このお正月、麓の本殿のあたりは、たくさんの人がお詣りに訪れていて、日本各地のいろいろなお国訛りや、中国語や英語やスペイン語などの会話があちらこちらから聞こえてきます。京都のことや、元旦の朝食のことや、ならんだ鳥居の神秘的な眺めのことを話しているのでしょうか。
参道をのぼっていくにつれて、人の気配はだんだんとすくなくなり、鳩や野鳥の鳴き声が響いてきます。

ちいさいころから、初詣だけでなく、たびたび参拝に来ていたので、ここ数年の変化に戸惑っています──コロナ禍のピークのときは、手水舎が封鎖され、本坪鈴も取りのぞかれました。参拝する人もぽつりぽつりでした──。
それでも、むかしのままと感じられるものがいくつかあります。
石段の、きまって歩くところにある凸凹や、参道に落葉と土が混ざってふんわりと発酵したような匂い。微かなことだけれど、いつも、そこには同じへこみがあり、香りがある。
そして、鳥居をくぐるときの、こころと身体が引き締まるような感覚。石段をひとつひとつ踏みしめる足音と、一定のリズムで繰りかえされる息づかいの音に、こころに抱いていた感情や思考はすうっと消えてゆき、未来に向いて進んでいけそうになる。うまく説明ができないのですが、信仰というのは、こういうところにあるのかなと思ったりします。

鳥居をくぐり、神域に入り、手をあわせて祈る。
人は、科学という方法を手に入れて、ものごとの理(ことわり)に則したふるまいをするようになりました。病には原因があり、お天気にも理由がある。理由がわかれば、それに対処する、コントロールができるというふうに。無闇に「祈る」ことは、理性のない行動だといわれます。
でも、それでも、私は祈ることをつづけます。
たとえば畑に立つとき、先人たちへの感謝を、未来への希望をこめて、手を合わせます。
今年も、立派なお野菜がたくさん育ちますように。

●むらた

※最近のやまあい/年始めからルタバガの収穫がはじまります。やまのあいだファームは、ずっと夏野菜の残渣で、全体が焦げ茶色になっていましたが、ルタバガの黄いろや緑いろが、明るく輝きはじめました──雪で白一色になるかもしれませんが──。
本年も、よろしくお願いいたします。