vol.21
1.
大学に入り、ひとり暮らしをはじめて、私は料理をつくるようになりました──外食は食費がかかるし、野菜不足になるから──。
なにを食べるかを考えてネットでレシピを調べ、スーパーで見覚えのある食材を購入し、レシピのとおりに調理する。誰かと食卓を囲むわけでもなく、インスタに写真をアップするでもなく、自炊の料理をひとりで黙々と食べてお腹を満たし、まな板や食器を洗って片付けておしまい。
食費の節約、野菜を食べるという目標はそれで達成できました。でも、義務のように料理をつくる、その時間は私にとって楽しいものではありませんでした。
2.
その後、料理について、私の考えを大きく変える出来事が2度ありました。
1度目はシェアハウスに住みはじめたときのこと。
シェアメイトは、トマトソースに味噌を合わせたり、カレーにヨーグルトを入れたり、私には想像もつかなかった方法で、とびきり美味しいごはんを作っていました。
レシピの通りに料理をつくらなくてもいい。私は彼女の真似をして、いろいろなスパイスや調味料を使ってみたり、食材の組み合わせを自分なりに考えて、工夫をするようになりました。
日々の料理は一汁一菜でよいという料理研究家・土井義晴さんと、政治学者・中島岳志さんの対談が収録された「料理と利他/ミシマ社刊」という本があります。
そのなかで、レシピとは極めて近代的なものだと語られています。定めておいたゴールに向かって、材料を揃え、加工し、組み合わせる工程を積み重ねるという料理の手法は、政治学でいうところの、人の力によって調和がつくりだせるという発想、設計主義のようなものだと。
料理人と呼ばれる人たちの長い歴史のなかで生まれ、淘汰され、完成されたかたちとなった近代の料理はすごいものだと思います。
でも、設計図に沿って組み立てるよりも、この食材とこの食材を合わせるのはどうだろう、火をとおしてみる、冷やしてみるとどうなるだろう、そんなふうにして、できたものの味わいを確かめる。調和を踏み外したことで得られる驚きは、私にとって料理の面白さとなりました。
2度目の出来事は、農学部の実習でたくさんの野菜を持ち帰るようになったことです。
それまでは、まず、なにをつくるかを考えて、そのための食材を用意して調理をはじめていましたが、このときに、すでにある野菜からどういう料理をつくろうかと、思考の順序が逆転しました──坂ノ途中のお野菜の定期購入をしている方も、そういう経験をされたかもしれません──。
大学生のころ、野菜はたまねぎ、にんじん、じゃがいも、キャベツしか買ったことがないという人がいました。彼曰く、野菜炒め、カレー、ポトフという3種類の料理しかつくらないから、それで十分だと。
私は愕然としましたが、料理のレパートリーが決まっている=用意する食材は決まっているというケースは案外多いようにも思います。
3.
料理とは、自然と私たちとをつなぐひとつの方法であるように思います。
切る、潰す、焼く、煮る、蒸す、干す、発酵させる、組み合わせる……。
そのときどきに得られる植物や動物といった収穫物を、人が食べられるかたちに変える、そこに料理は存在していました。
今の日本では、たいていの食材は簡単に手に入ります。料理は、食べられるかたちをつくること以上に、美味しさや美しさといった食欲とはべつの欲望を叶えることが求められます。そして、そんな欲望を追い求めることは、どこか自然と私たちの結びつきを見えないものへと変化させているのかもしれません。
「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人か言い当ててみせよう」
そう言ったのは、美食家として知られる、革命期フランスの政治家ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランでした。
私がいつも食べているものを彼に伝えたら、なんと言うのでしょうか?
「幸せな人だ」と言うでしょうか、「寂しい人だね」と言うでしょうか?
●石川 凜