vol.2

瀬戸内海に浮かぶ人口350人ほどの小さな島に、友人が暮らしています。
島には下水処理施設がないため、下水はそのまま海に流されます。その一方で、漁で生計を立てる人が多く、海を汚すことを嫌います。
私が友人を訪ねて民宿に滞在したときには、食事の後、食器を洗う前に油を新聞紙で拭き取るよう、念を押されました。

島の人たちは、いまどきの言葉を使えば、サステナビリティに配慮して暮らしているといえるのかもしれません。
でもなぜかその言葉に私は違和感を覚えます。島の暮らしは持続していくことが前提となっているはずなのに、島の人たちの暮らしに「サステナブル」という言葉はなんだか似合わないように感じるのです。

最近「サステナブル」にとともに使われるようになってきているのが「リジェネレーション」です。
欧米にはじまり、日本でも少しずつ、「サステナビリティからリジェネレーションへ」のような文言がメディアで見られるようになってきています。
「サステナブル」なだけでは不十分だ、これからの時代は「リジェネレーティブ」でもなくてはならないと語られはじめています。

サステナブルとは、「sustain(維持)」していけること。
一方でリジェネレーティブとは、「regenerate(再生)」していけること。
現状を修復し、そこからさらにより良い状態を目指すことも必要なのではないかというのです。

島で農業をする人は年々少なくなっており、荒れ果てた田んぼがたくさんあります。ダンチクという多年性の植物で覆いつくされ、土も硬くなり、とうてい田畑として使えるような状態ではありません。
その一部で、島の有志の人たちが2頭の豚を飼っているのを目にしました。各家庭から出た野菜や魚の生ゴミを集め、その豚に食べさせています。
豚がダンチクをなぎ倒し、地面を掘り起こし、食べて、そして排泄することで微生物の働きも盛んになります。土も柔らかくなるため、その土地は再び畑として使えるようになるのだそうです。

豚を放し飼いにすることで微生物の働きを促し、田んぼや畑を甦らせることは、もしかしたら「リジェネレーション」と言えるのかもしれません。でも、この取り組みを「リジェネレーション」と呼ぶこともまた、私はなにか違うような気がしました。 5年ほど前、私は短期留学したイギリスの大学で文化人類学の授業を受けました。そこで教授が「多くの学問や概念は、世の中のあらゆる事象をクリスタライズ(結晶化)したものである」と語っていたのを、今でも時々思い出します。

もしかしたら「サステナブル」「リジェネレーション」といった言葉も、もともとは島の人々のような暮らしを説明する表現として使われはじめたのかもしれません。しかし、その範囲が定義づけられ、ひろく普及するうちに「クリスタライズ」されてしまったような印象を受けます。

京都大学准教授の藤原辰史さんが新聞に寄稿した文章に、こんな一節がありました。

“教育勅語と戦陣訓を叩(たた)き込まれて南洋の戦場に行き、生還後、人間より怖いものはないと私に教えた元海軍兵の祖父、感染者の出た大学に脅迫状を送りつけるような現象は関東大震災のときにデマから始まった朝鮮人虐殺を想起する、と伝えてくれた近所のラーメン屋のおかみさん、コロナ禍がもたらしうる食料危機についての英文記事を農繁期にもかかわらず送ってくれる農家の友人。そんな重心の低い知こそが、私たちの苦悶(くもん)を言語化し、行動の理由を説明する手助けとなる。”
(「人文知」軽視の政権は失敗する 藤原辰史さん寄稿, 朝日新聞, 2020年4月26日)

最近、家のベランダでコンポストをはじめました。コンポストとは、微生物の働きで、生ごみを堆肥化するというもの。
その様子をみていて、私は「循環」「分解」といった言葉を、より身体的に理解できるようになった気がします。
また、漁獲量が落ち込んでいるとニュースで聞くよりも、魚が獲れなくなっているという話を島の漁師さんから聞く方が、切実さを持って考えることができます。
この身体的な感覚、切実さを伴った情報のことを、藤原さんは重心の低い知と呼んでいるのだと思います。
島の人々が食器を洗うときに油を流さないようにするのはサステナブルな社会を目指すためではありませんし、荒れた田んぼに豚を放すのもリジェネレーションを起こすためではありません。
彼らは、油を下水に流せば海へと流れ、プランクトンや魚など様々な生物の生態に影響を与えることを知っています。人間が生ゴミと呼ぶものも人間以外の生物にとっては食べ物であること、動物の排泄物も微生物たちに分解されれば土となることを知っています。

「サステナブル」「リジェネレーション」といった言葉ではなく、日々の営みの中で培われた「重心の低い知」こそが、彼らの行動の根っことなっているのです。

クリスタライズされた言葉は私たちに道しるべを与えてくれます。一方で、私たちの日々の営みを根っこで支えてくれるのは、そこに含みきれない、重心の低い知というようなものなのかもしれません。

「サステナブルな社会を目指す」 その言葉が、上滑りしてしまわないように。
自然と関わり、人と対話を重ねながら、自分なりに知を培っていけたらと思います。

●石川 凜