vol.1

子どもの頃に住んでいた家は、一戸建ての借家でした。
隣の家のすぐ裏には雑木林があって、私の家のまわりにも少しだけ背の高い木や、あちこちに葉を広げる草が生えていました。そのなかには小さくて酸っぱい実をつけるいちごや、いい匂いを漂わせる紫蘇など、食べられる植物もありました。

小学校に入ってまもない頃だったでしょうか。
なんだか突然、不思議に思い「いちごはいつからここに生えているの?」と親に訊いたことがありました。すると親は、植えていないのでわからないよ、と。
私が自然に生えてきたものだと思っていたいちごや紫蘇は、前にこの家に住んでいた人が植えたものだったのです。
人間が食べる野菜や果物は、多くの場合、人間が「植える」という行為をした結果「生えている」のだと気づくきっかけとなった出来事でした。

人間はもともと野生の植物を採集したり、動物を狩ることで食料を得る狩猟採集民族だったそうですが、ではいつから「植えて、育てる」ということをはじめたのでしょうか。

世界的にベストセラーとなった、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリによる『サピエンス全史』という本には、この狩猟採集から農耕への移行、すなわち「農業革命」という人類にとっての大きな生活の変化について書かれています。

人類は紀元前9,500〜8,500年ごろに現在の中東、中国、中央アメリカなどの地域で農耕をはじめ、そこから紀元100年までの間に農耕の地域を広げていったそうです。
人類の250万年にも及ぶ狩猟採集の歴史からすると、農耕がはじまったのはごく最近のことだったのですね。

農業革命によって、人類は同じ面積の土地からはるかに多くの食料を得ることができるようになりました。また農耕を開始したことで移動の必要がなくなり、定住するようになったことで出産の頻度も高まりました。これが、等比級数的に人口を増やすことにつながりました。

この人口増加は、生物種の繁栄という観点で人間にとって良いことであったと一般的に解釈されてきましたが、実は格差や伝染病の発生、労働時間の増加などをもたらしたため、必ずしも個々の人間の生活水準の向上には繋がらなかったとハラリさんは指摘します。

かつては農業革命は、人間が知能を向上させたことで起こした大躍進で、飢えをなくし、安定した生活というものをもたらしたと学者たちに評価されていました。しかし、ハラリさんは農業革命が人類を豊かにしたというのはまったくの嘘だといいます。では、なぜ農業革命が起き、人間は農耕を続けているのでしょうか。

「犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。」
つまり、人間は農耕をすることで小麦などの作物を育てているのではなく、小麦などによって飼い慣らされているというのがハラリさんの主張です。

マイケル・ポーランさんというアメリカのジャーナリストも、『欲望の植物誌―人をあやつる4つの植物』という本の中で、りんご、チューリップ、マリファナ、じゃがいもという4つの植物がいかに人間の欲望をうまくとらえて繁栄してきたかということを解説しています。

なんだか突拍子も無い話のようにも聞こえますが、花の蜜を集めるというミツバチの行動を思い出してみると、納得がいくかもしれません。

ミツバチが蜜を集めるのは、一見するとミツバチが自分の食べ物を得るためのようですが、植物の視点からすれば、ミツバチに受粉をしてもらうことで自分の子孫を残したいという思惑があります。すなわち、動物が自らの利益のために行なっているように見える行動にも、植物の視点に立ってみると植物にとっての成功、すなわち植物種の繁栄への戦略が潜んでいたのです。

思い返してみると、私も美味しいいちごや紫蘇を食べたいがために、家の庭に生えているいちごや紫蘇には水をあげたり、まわりの雑草を抜いたりと、せっせと世話を焼いていました。ハラリさんやポーランさんに言わせれば、私もいちごや紫蘇にうまく操られていた、ということなのでしょう。

そう考えた時に、私はなるほどなあと思うと同時に、ちょっとした違和感も覚えました。
「飼い慣らされている」「操られている」という言葉を聞くと、「意図しないうちに、より力のあるものにコントロールされている」というようなニュアンスがあるように感じます。しかし、そもそも私たち人間と植物に主従関係のようなものは存在するのでしょうか。

私は少し元気を無くした紫蘇を見ては慌てて水をやり、紫蘇は水を得ると再び元気を取り戻します。私は摘みたての美味しい紫蘇を食べるために種をとっては翌年に蒔き、紫蘇は種から芽を出し葉を茂らせます。その行動は、種全体という大きな視点で見れば「操られている」と言えるのかもしれないけれど、私にとっては目の前の紫蘇と向き合い、ただ紫蘇と呼応しながら行動しているに過ぎないのです。

「飼い慣らす」「飼い慣らされる」、「操る」「操られる」という主従関係ではなく、「お互いに呼応し合い、変化していく」
「共進化」という言葉がありますが、生物はもともと生態系の中で互いに影響を及ぼしあう過程で進化を遂げつつ子孫を残していくもの。そうであるならば、私たち人間と植物も呼応し合い、その関係性のなかで行動や形態を変化させ、それぞれの子孫を繁栄させていくというのはごく自然のことかもしれません。

「人間は、もっと下へ、大地へと、自分たちの地位を引き下げていい。(中略)人間が、人間でないものたちと同じ地表に降り立つところから、新しい存在の喜びを見つけ出していくのだ。」

『数学する身体』で知られる森田真生さんのエッセイにあった、私のお気に入りの一節です。ハラリさんは「人間至上主義」の次には「データ至上主義」という考え方が世界に広まると言い、多くの人の共感を呼びました。でも私は、人間至上主義の次は「〇〇至上主義」ではなく、「人間が、人間でないものたちと同じ地表に降り立つ」という感覚、強いて言うならば「上も下もない主義」とでもようなものが広まったらいいのになあと、こっそり思っています。

地上の覇者としてではなく、一生物種として人間が存在するあり方。
人間と人間でないものたちとが、呼応し合い、そこに喜びを見いだせる関係性。
そのヒントが畑にあるのかもしれない。
「育てる」という言葉からは、人間が「育てる」、植物が「育てられる」という主従の関係性をイメージしてしまうけれど、人間も植物も同じ地表で相互作用しているに過ぎないとしたら、もっと別の言葉を使うことが必要なのではないか。

その新しい言葉こそが「上も下もない主義」を広めるには必要なのではないか……。

そんなことをもやもやと考えながら、今日も私はベランダの紫蘇に水をやります。

●文 石川凜  ●イラスト 福田真澄