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動物を殺すのは残酷なこと?
家畜を殺して食べることは?
可哀想だけど……肉は食べる。そういう人は多いのではないかと思います。

でも、「だけど」に連なる言葉ってなんでしょう? 食べなければ生きていけない? そんなことはありません。肉をまったく食べない生活をおくっている人たちもいます。
私たちが食べている肉は、もとは確かな体温を持って生きていた動物のからだの一部。
その動物を殺して食べている。
当たり前のことなのに、その事実を直視できる人は多くないように思います。

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日本では、肉の加工や皮を鞣すという職業に対して、忌まわしい、穢らわしいという視線が向けられてきました。
「ほかの国や地域でも同じなんだろうか」
「忌まわしい、穢らわしいことでないとすれば、どういう考え方、感じ方の違いがあるのだろう」
そんな問いかけをもとに、国内外の屠畜の現場を訪れたのが内澤旬子さんです。
「世界屠畜紀行/解放出版社2008年・角川文庫2011年刊」では、屠畜の様子を描いたスケッチとともに、各地で出会った人たちとの臨場感に溢れるやりとりが綴られています。
読むと、屠畜をめぐる職業差別や、不快感などは、ほかの国にも存在することがわかります。また、その一方で、イードルアドハー(犠牲祭)などで牛や羊を潰す機会の多いエジプトなどでは、屠畜に嫌悪感を持つことはあまりないようです。
後半には、日本の屠畜の現場で働く人たちのインタビューもあり、多くの人たちの眼差しを知ることができます。

屠畜の現場から遠ざかれば遠ざかるほど、無責任に「可哀想」という言葉を口にするのではないか。私はそう感じました。

“相手の文化や状況も理解しようとせずに、「残酷」と言い放つことこそが、一番「残酷」なのではないだろうか”角川文庫版・p.117
“屠畜は「怖い」ことなんかじゃない、当たり前のことなんだ”角川文庫版・p.155

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以前、私は屠畜を経験した話を書きました(vol.5「肉を食べる」を考える|正しさとは何か)。でも、それまで、そのことを誰かに話す機会はほとんどありませんでした。怖がられるかもしれないという気持ちがあったからです。
昆虫食にも同じようなところがあります。東南アジアで昆虫を食べた経験を喋ると、気持ち悪い、怖いと顔をしかめる人たちがいます。
私ははじめてコオロギを食べたとき、エビみたいだと思いました。昆虫食が好きという人と話をすると、かなり美味しいよねと盛り上がります。
昆虫食に向けられる嫌悪感も、単純な食わず嫌いという部分が大きいように思います。

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フィルターバブルという言葉を最近、耳にします。
インターネットのパーソナライズ機能によって、その人の嗜好性に沿った情報ばかりに囲まれる(情報がフィルターにかけられて、自分を包みこむバブル(泡)のなかの情報しか見えなくなる)現象のことを言います。
私は食に対する意識も、フィルターバブルと同じ原理で形成されていくように思います。
嗜好や習慣だけを頼りに食を選択していると、自分のまわりには都合の良いニュース、インフォメーション、コミュニケーションだけが集まってしまう。そして、気づかないうちに、それ以外の情報が受け入れにくなってしまう。

ある食育イベントに参加したとき、魚の切り身が泳いでいると思っている子どもたちについて嘆き、子どもの料理教室を行うべきという人がいました。
だけど、そもそもは大人たちが魚を捌くことをしなくなったから、子どもたちは魚=切り身だと思っているはずです。その背景を考えると、根本的な解決策は家庭の料理にあると思います。

少し冒険してみる。
嫌悪感や恐怖心を理由に遠ざかるのではなく、一歩踏み出して近づいてみる。ときには勇気を持って飛び込んでみる。
そんなふうにして、私たちはより多様な視点、しなやかな価値観を持てる。そんな気がします。

●石川凜