vol.6
食べるということは、不思議な行為かもしれません。
食べなければ、生きていくことはできません。
それなのに、無意識のうちに食べものを口に運んでいます。

2018年3月、京都大学人文科学研究所准教授の藤原辰史先生と、12歳の小学生から18歳の高校生まで8名の子どもたちで「食べる」ということについて考える座談会が開催されました。『食べるとはどういうことか・世界の見方が変わる三つの質問/農文協刊』には、藤原先生が投げかけた3つの質問とその解説、そして座談会で行われた対話の内容がまとめられています。

藤原先生は農業や食の歴史やその思想について研究されていて、『ナチスのキッチン』『戦争と農業』など数多くの著作があります。2020年4月に「B面の岩波新書」で公開され、大きな反響を呼んだ『パンデミックを生きる指針——歴史研究のアプローチ』という記事で藤原先生を知られた方も多いかもしれません。歴史の切なさに向き合い、現代の状況を冷静に見つめ問いを投げかける、私も大ファンの歴史研究者です。

座談会で投げかけられた質問はどれもシンプルながら、すんなりと答えられるものではありません。対話のなかで子どもたちから飛び出す素直な言葉は、ときに鋭さをもって、その問いの持つ深い意味に届きます。
自分だったらどう答えるだろう……考えているうち、座談会に一緒に参加しているような感覚になっていました。
普段は深く考えることのない、でも人間にとって大切な「食」について、少し立ち止まって思いを巡らせてみる。その入り口にこの本はぴったりです。

<第一の質問> いままで食べたなかで一番おいしかったものは?
この質問に対して、私はありとあらゆる食事の記憶を掘り起こしました。
1日3食で、1年で1095食。20年で21900食。何万回とつづけてきた食事すべてを思い出すことはできません。必然的に、強く記憶に残っているもののなかから探し出すことになります。

私はしばらく迷った末、自分の誕生日に母がよく作ってくれたグラタンという答えにたどり着きました。玉ねぎやじゃがいもがゴロゴロと入っているので、大きなスプーンでたっぷりすくって、あつあつのうちに食べます。実家を離れてからもいろいろなグラタンを食べましたが、母のグラタンよりも美味しいものに出会ったことはありません。
きっと、私が感じていてた美味しさは単純な味だけではないのでしょう。
母が私のために作ってくれたという嬉しさや、お祝いをしてもらった喜び、家族と一緒に囲む食卓の楽しさなどがあったからこそ、余計にグラタンが美味しく感じられたのだと思います。そのような条件の重なり合いで美味しさが構成されているのだと、改めて気づかされる質問です。

<第二の質問> 「食べる」とはどこまで「食べる」なのか?
食べるとはどういうことなのか。
そもそも、食べるという行為はどこからどこまでのことを指すのか。これも難しい問いです。
口に入れてから飲み込むまでのことなのか、内臓のなかで完全に消化されるまでのことなのか、それともお尻から外に出ていくところまでなのか……。

私がなるほどと思ったのは、食べものにとって人間は通過点でしかないという考え方です。食べものは、自然のなかで育ち、トラックで運ばれ、お店に並び、台所で料理され、人間の口から入って体内を巡り、下水道に流れ、微生物に分解され、自然に還っていきます。

“食べものって旅をしているんです。ずっと旅をしている、そのほんの一部分だけ人間がかかわっているわけです。
つまり、食べるということ、食べものは、生きているものたちによってにぎわっている世界のなかの、ものすごい大きな循環のなかの一部にすぎない。” p.106

私たちは生きものを殺し、口から肛門までの一本の管を通して、生きている。単純なようで、実は壮大なことなのかもしれません。

<第三の質問>「食べること」はこれからどうなるのか?
「交差点のようなものとして食べものはある」と藤原先生は語ります。味覚はもちろんのこと、触覚、嗅覚、視覚、聴覚も含めた感覚や、食欲だけではない欲望、農家や漁師、食べものをつくっている人や、あらゆる生きものが絡みあったなかで、人間はものを食べているのだ、と。

星新一さんの小説に『味ラジオ』という作品があります。その世界では栄養補給のために食べるパンやチューインガムは無味ですが、その代わりに、口のなかの装置が放送局からの電波を受信してさまざまな味を再現し人間の味覚を楽しませてくれます。現実世界でも、最近では「味ディスプレイ」という装置でいろいろな味を表現できるようになっているそうです。

すでに、完全栄養食や培養肉のようなものをつくる技術は開発されています。
健康のために必要なすべての栄養が得られるゼリーが手に入るなら、人間はそれ以外の食べものを食べなくなるのでしょうか。培養肉が普及したら、人間と他の生きものとの関わり合いは途絶えてしまうのでしょうか。

この先、食べものにまつわる感覚、欲望、人間、生きものといった要素はバラバラに分解されていって、絡みあいが少なくなっていくのかもしれません。
私たちはそんなとき、何をどのように残すのでしょうか。めんどくさいから、役に立たないからと、味覚以外の要素を削ぎ落としてしまうのかな……と、私は母のグラタンを思い出しながら少し寂しい気持ちになりました。

食を考えるということ
このように食を考えることは、私はとても大事なことだと思っています。
なぜでしょうか。

生きるということに直結しているものだから。
人間と自然とをつなぐものだから。
文化を作るものだから。
人と人との関わりを生み出すものだから。
生きものの命を奪うことだから。
藤原先生は、政治に密接に関わるものであることや、哲学への入り口としての食という側面も挙げています。みなさんにとってはどうでしょうか。

“Eating is an agricultural act.” (食べることは農業的な営みである。)
アメリカの詩人であり農家でもあるウェンデル・ベリーさんは、『The Pleasures of Eating(食べることの喜び)』というエッセイのなかで、こう言いました。

これに対し、以前の「育てる」を考える|植物と人間の関わりについてでも紹介したアメリカのジャーナリスト、マイケル・ポーランさんは『The Omnivore’s Dilemma: A Natural History of Four Meals(雑食動物のジレンマ: ある4つの食事の自然史)』で、
“It is also an ecological act, and a political act, too.”(生態学的でもあり、政治的でもある。)
とつづけました。

食は、あらゆる角度から社会に接続しています。
私たちひとりひとりの食べるという行為が、無意識のうちに生態系を破壊しているかもしれないし、特定の主義主張を応援しているかもしれない。
食を考えることは、社会を考えること。
だからこそ、私は食を考えることをつづけていきたいと思っています。

“「食」について考えていくと、まるで深い森のなかを迷うような、または、異国の狭い路地をさまようような、そんな不安感と冒険心がごちゃまぜになった感覚に襲われます。” p. 20-21

この本は、そんな食べるということの奥深さを味わう楽しさを改めて感じさせてくれる本でした。

この考える食卓・おいしい未来の連載でも、引きつづききみなさんと「思考のジャングル」を一緒に探検していけたらと思います。

●石川凜