少し暖かくなりました。
朝、布団から出るのが嫌じゃなくなってきた感じ。畑で動いていると汗をかいたり。
畦の草花も色をつけはじめていて、冬とは様子が違う。
春だよ、さぁ、はじめよう! みたいに元気がいい。

やまのあいだファームでは、ほうれん草、ソラマメ、スナップエンドウといった春作の世話をしながら、夏のお野菜、ナスやオクラの準備に取りかかっている。今年はどんなふうにしようかと思いながら、ふと、農家の腕の良し悪しについて考えていた。

良いお野菜をたくさん、少ない手間で育て、収穫できること。大雑把だけれど、僕を含めてたいていの人たちが、そこらへんを腕のいい農家の条件に挙げると思う。
ナスのことでいえば、脇芽を摘むにも適切なタイミングがあって、樹勢が強いから早めに摘もうとか、逆に樹勢がおとなしいから少し脇芽を伸ばしてから摘み取ろうとかを判断する。そういったことが見極められるようになれば、作業の無駄を減らすことができて、たくさんの美味しいナスが育てられる。
野菜の生育にとって、最適のバランスが保てるよう、少しだけ手助けをする。そのための知識と観察眼を持つ人が篤農家と呼ばれる人たちだと思う。

でも、僕にはほんの少しだけ付け足したいところがある。
技術──つまり理屈ですね──はものすごく大事。なくちゃはじまらないけれど、それだけではないんじゃないか。
知り合いから聞いた話で、家に鉢植えがいくつもあって、熱心に世話をしているのに駄目になってしまうことが多いらしい。そうすると、彼は同居しているお祖母さんにその鉢植えを任せてしまうそうだ。
「祖母が世話をすると、すごく元気になるんだ」と彼は言った。
「園芸に詳しいわけでもないし、とくべつに手をかけているわけでもないのに」
園芸の本を読み、ネットで情報を漁り、土を替え、水やりを工夫し、温度や湿度にも気を使っても駄目なものが、祖母の手にかかるとピンと立ち直る。
まるで魔法の手だと、彼は言っていた。
僕にもなんとなくわかる。身近なところだとお料理とか音楽とか、技術というものではないなにかの存在は強く感じる。たぶん、農業にも技術では語れないなにかがありそうな気がしている。

お祖母さん、いいなあと思いながら、お野菜の機嫌を損ねてはあたふたしている僕にはとても手の届かない話で少し悲しいですが。

●ケンゾー