そこにあるものでつくられている。
ラオス北部の山間部を歩いていたとき、そのことに気づきました。
竹と木と廃材のタイヤでできた橋。そのあたりにたくさん生えている竹を編んで結んで、タイヤは細長く切って釘で打ちつけてある。歩きやすくて、ちょうどいい感じ。
ブリコラージュという言葉を思い出しました。

” 伝統社会においては、そこにあるものでなにができるかを考え、つくる ”
フランスの社会人類学者、民族学者のクロード・レヴィ=ストロースは、それをブリコラージュと呼びました。人類が古くから持っていた知性、「野生の思考」をブリコラージュのものづくりのなかに見つけて、理論を必要とする近代のエンジニアリングを「栽培された思考」として切り分けました。
” 近代社会では、目的のために必要なものを揃えて実現していく ”

料理にたとえるなら、そこにある材料でなにができるかを考えてつくる料理と、ある料理をつくるために材料を揃えるところからはじめる料理、みたいな感じ──坂ノ途中のお野菜セットって、届いてから料理を考えるので、ちょっとだけブリコラージュ的かなと思ったり──。

私の暮らす家には、お隣さんとの共有の庭があり、1本の桑の木が生えています。ある日、そのお隣さんが、赤くキラキラとした桑の実のゼリーを届けてくれました。
「ずいぶんたくさん実っていたから、なにかできそうだなって。それでゼリーを作ったの」
私はちょこっと摘んでそのまま食べるだけだったのに……。
ブリコラージュの面白いところは、人それぞれの姿かたちをなぞるところだと思います。その人の過ごしてきた、いわば人生のようなものがあらわれる。
そしてもっと面白いのは、ブリコラージュに溢れた社会ではゴミが生まれないのだそうです。ゴミという発想がないから。

子どもの頃、世界はそんなふうでした。
庭で拾ってきたサザンカの実、父が飲んだビールの瓶の栓、どこからやってきたのかわからない釘、乳白色のフィルムケース、かまぼこの板、スーパーのチラシ、木の枝……すべてがなにかになるための素材だった。
すごく楽しい世界……。でも、その頃のことを思い出しながら、大人になってしまった私の感覚はどこか鈍くなっているような気がしました。

●ますお

*やまあいでは、麦を刈り取る日が続きました。雨が降ると大変だから大急ぎです。
ライ麦は、私の背より高く育つこともあります。刈り取ったあと、干して乾かすのですが、そのための竿がなくて、竹を切りに行くことに。しばらく使っていなかった鉈を研ぎました。そういう時間は心がほっと落ち着きます。無事に麦も干せました。