京都、祇園。舞妓さんや観光客、地元の人が行き交う、花見小路のほど近く。路地に佇むビルの階段を上った先に、ちいさなお菓子の工房があります。

 まるで秘密基地のようなその場所でお菓子を焼いているのは、日々菓子(ひびかし)の吉田幸恵さん。米粉のキャロットケーキや、猫のかたちのクッキー缶など、心に癒しをくれる素朴な焼き菓子が人気です。

 日々菓子をおひとりで営む吉田さんは、いつもどんな想いでお菓子づくりをされているのでしょうか。祇園の工房を訪ね、お話をうかがいました。

自分にできることはなにか

 吉田さんがはじめてお菓子をつくったのは、高校生のときでした。友人のためにケーキを焼いたことがきっかけとなって、その世界に興味を持ち、のめり込むように。

「たのしい!と思って。そのまま、突っ走ってお菓子のほうに行っちゃったんですよ」と笑う吉田さん。

 両親から「手に職を」と言われていたこともあり、高校卒業後は、お菓子づくりの道へ進むことを選びました。製菓の専門学校を卒業し、ケーキ屋さんで製造の基礎を学んだり、販売や喫茶を担当したり、カフェでケーキを焼いたり、お菓子に関わる仕事を続けてきました。

 とつぜん、原因不明の体調不良に悩まされたのは、30歳を迎えたころ。心も体もぼろぼろになって、活動する気も起こらず、落ち込んだ状態がつづきました。そんなとき、久しぶりに連絡をとった友人たちが、お菓子屋さんとして独立していることを知ります。
 
 なにか、自分にもできることがあるのではないか。ちいさな希望を掴んだ吉田さんは、自分のお店をひらこうと決心。すぐには難しい状況でしたが、段階をふんで進んでいこうと、歩みはじめました。

 屋号は「日々菓子」にしよう。その名に迷いはなく、焼き菓子屋をすると決めてからは、アルバイトをしながら、開業に向けて準備の毎日。手づくり市に出店したり、アルバイト先のカフェで販売をはじめたり、一歩一歩。

「0か1かの違いは大きいと思うんですよ。0はずっと0ですけど、1を踏みだしたら、なにかどこかのきっかけで2倍、3倍になったりするかもしれない」

 そして、偶然めぐりあったのが、いまの祇園のビルにある物件でした。ちいさな一室を、友人とほとんど二人だけで改装し、日々菓子の看板を立てた工房ができました。

「日々菓子」に込めた、3つの想い

 店をひらくと決めた日の夜、すぐに思い浮かんだという屋号。「日々菓子」に込められた、大切な3つの意味を教えてもらいました。

「自分の体調を崩していたときに感じたのが、さりげない日常がすごく幸せだということだったんです。顔を洗ったり、好きな服を着たり、友だちとお茶をしたり。そんな日々の暮らしの幸せに、あらためて気が付いて。その小さな幸せを忘れないために、『日々』と」

「もうひとつは、日々食べても体への負担が少ないお菓子を作りたいと思ったからです。自分がふだんの生活でも選ぶ、茶色いお砂糖や国産の原料。なるべく体に負担が少なく、シンプルな材料を使うこと。日保ちは少し短くなるけれど、そのぶん新鮮な焼き菓子を届けられるかなと」

「それから、『ひびかし』って音にすると響かせるという意味になって。心に響く、心に届くといいなって。

 一つきっかけがあって。むかし、『おせちケーキ』というものをつくったことがあったんです。自分では、うまくできなかったかもしれないと後悔した気持ちになっていたんですが、それから10年くらい経ったときに、娘さんがその店に来られて。10歳のときに父が買ってきてくれたそのケーキが、今も忘れられないと仰ったんですよ。そのお菓子が彼女の心に残っていたことにすごく感動して、嬉しくて。それから、心に残る、心に響くものをつくりたいなってすごく思うようになったんです。

 お菓子って嗜好品ですし、食べてもいいし食べなくてもいいものなんですよね。でも、どんな役割があるかと聞かれたら、ほっこりしたり、幸せになったり、嫌な気分を断ち切れたり、思い出になったり。心に効くものだと思うんです」

 心に効くお菓子。そう聞いて、はじめて日々菓子のレモンケーキをいただいたときのことを思い出しました。レモンの果実の香りや酸っぱさが口のなかでほどけていく。素材を丁寧に扱い、人を想ってつくられていることが伝わる味わい。疲れていた心がふわりと軽くなりました。

幸せをはこぶお菓子

 吉田さん自身の原点にあるのは、子どものころに感じた、お菓子へのワクワク感。いつもケーキ屋さんが配達してくれるスペシャルケーキをすごく楽しみにしていたこと。お父さんが酔っぱらって、両手いっぱいにお菓子を抱えて帰ってきたのが嬉しかったこと。誕生日。クリスマス。幸せを感じる場面にはいつも、お菓子がありました。

「手にとってくれた人に、幸せな気持ちになってもらえたらいいなって。どんなお菓子も、そう思ってつくっています」

 お話をうかがっているあいだに、甘い香りがただよってきて、米粉のキャロットケーキが香ばしく焼き上がりました。

 ホームメイドのような温かさがありながら、ひと手間、ふた手間かけられた、おいしさ。嬉しかったり、悲しかったり、どんな日々にもそっと寄り添ってくれる、そんなお菓子。

 きょうも吉田さんは、ひとりきりの工房で、お菓子がはこぶ幸せを願っています。