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「できるだけ、ごみ出しを控えましょう」
1年ほど前に、そんな呼びかけを耳にしました。
外出の自粛をきっかけに家の片付けをした人が多かったこと、通販の利用が増えて家庭ごみが増えたためです。
私は、それまで気にも留めなかった、ごみについての疑問が浮かびました。
なぜ大量のごみが出るのだろう。ごみとして捨てられたものは、本当にごみなんだろうか。それは最初からごみだったのか。ごみの回収がなかったら私たちの生活はどうなるんだろう。

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循環生活研究所(じゅんなまけんと呼ばれています)を訪れたのは、ごみについてもやもやとしていたときでした──坂ノ途中の「野菜がめぐるコンポスト」で扱っている、LFCコンポストを開発された会社です。

「楽しい循環生活」
生ごみが小さなコミュニティのなかで循環するしくみ。家庭の生ごみをコンポストを使って堆肥にする。その堆肥で畑の野菜を育てる。野菜を食べてできた生ごみはコンポストへ。
そして、生ごみは栄養となって循環していくだけでなく、人のつながりもつくっていく。生ごみは堆肥になり、みんなでそれを持ち寄って畑の野菜を育てる。若い人たちが地域の生ごみを回収するなかで、たくさんの人たちと会話が生まれる。
じゅんなまけんの理事、たいら由以子さんの「生ごみは立派な資源」という言葉に目が開かれました。生ごみは「ごみ」ではない。

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私たちが目を背けてきた「ごみ」はたくさんあります。
トイレで水を流す、古くなってしまった冷蔵庫を捨てる。ごみと名づけること、ごみと呼ぶことで、それを自分から切り離して、遠くの見えない場所に追いやる。そんなことを日々繰り返しています。

そもそも「ごみ」ってなんでしょう。
広辞苑第7版には「物の役に立たず、ない方がよいもの。ちり。あくた。ほこり。また、つまらないもの」と書かれていました。「ごみ」が、その人の価値観に基づいて定義されていることがわかります。
どんなに価値があるとされているものでも、自分が不要だと判断し、「ごみ」と名づけてしまえば、それは何の役にも立たないもののように見えてしまいます。かつては循環という環のなかの資源だったものが、循環を見失って「ごみ」になる。

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生命がめぐる暮らしから遠く隔たったところに私たちはいます。つながりが感じられないほど、資源がめぐる環は大きくなっている。いや、必要以上に大きくして、環を見えなくしてきたのかもしれません。
あるいは資源は循環していないのかもしれません。使いたいだけ使って、いらなくなったら燃やして、埋めて。いらないし、邪魔だから「ごみ」として捨てている。捨てたものがどうなるのか知らない。
遠くの、顔も名前も知らない人が私の「ごみ」を片付けている。

 

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サーキューラーエコノミーという言葉があります。それまで捨てられてきたものを新たな資源とする、廃棄物をつくらずに資源を循環させる経済のしくみのことです。
新しい考え方のようにも思えますが、実はそれは昔に行っていたこと。でも、それでも資源の使い方を、循環というキーワードで見直そうという動きが広がりはじめています。
細くて、でも強い野菜の皮を頼りに、なんとか循環の環につながっていられないものだろうか。何の気なしに捨てていた生ごみ──と私が呼んでいたもの──を、そっと自然のなかに戻してみる。コンポストは、循環になかに人間をつなぎとめるものなのかもしれません。
私の身の丈にあった循環、そこから考えていきたいと思います。

●矢野日和子


※坂ノ途中では「野菜がめぐるコンポスト」でできた堆肥を回収してやまのあいだファームで活用するプログラムをはじめます。詳しくはこちらをご覧ください