ITチーム 片山大

食べものについての文章を読むのが好きで、食に関する本もわりとよく読むし、食べログのレビューを読むのも楽しい。一度、知人から、他人がものを食べた話なんて読んでなにがおもしろいの? と訊かれたことがあって、考えてみると、読書を通していろんな味覚を追体験できることが好きなのかも、と思えてきました。

例えば、岩満重孝さんの「百魚百味」(中公文庫)の一文、「とれたての北海蝦(ホッカイエビ)の皮をつるっ、と剥いて、水でさっと二度ふるい流し、さっさと口に放り込む。独特の甘みがとろけるが如く口中に広がって、ああ、何も言うことはないのである」

北海蝦を食べたことがなくても、とろける甘みやぷりっとするだろう食感を口のなかに想像してしまう。もちろん、香りや食感、重なりあった味といった、とても言葉で表現しきれない複雑なものが著者と同じようにわかるわけはないのだけれど、読みすすめていると、その料理を食べたことはなくとも、食べた感覚を追体験できるような気がする。いい旅行記を読んで、行ってもないのに行った気になってしまうのと近いかもしれない。

旅行記では、時代が変わり、街が様変わりして、もうその本の書かれたころのような旅ができなくなっている街のことも読書を通して体験できます。同じように、食べることについても、現在はもう食べることができなくなっているものでも、読書を通して追体験できます。この本でも、「淡白な味わいが口内いっぱいに広がるのを止めることができなかった思い出がある」と表現されるアラレガコは今では天然記念物になって食べることはできません。今後は、絶滅が危惧されるウナギなどの同じようになる可能性もあります。

じつは、天然のものである山菜や魚と比べると、人間が育てる野菜はもうちょっと難しい。生産者さんや種苗屋さんが食味の良いものや育てやすいものを選定しているから同じ野菜でも時代によって味は変わっています。

と、考えて、「野菜百珍(中公文庫)いう林春隆さんによる昭和5年に出版された本を読んでみた。小松菜を調べると、その前後の、菰角(こもづの)や金針菜(こんしんさい)という自分の知らない野菜が小松菜よりも長く説明されている。林檎の項でも、10品目ほど種類が紹介されているけれど、いま店頭で売られているものはひとつもない。野菜の流行り廃りを感じます。いま僕らが食べている野菜も何十年後かにはなくなっていたり、味が変わっていてもおかしくありません。おばあちゃんが言っていた、昔のトマトはもっとおいしかった気がするというのは記憶が美化されただけではないのかもしれません。

もちろん、記憶も変わります。中学生のころ、柔道部の先生に練習の後に連れて行ってもらったラーメン屋はびっくりするくらい美味しかったけれど、大人になってから再訪するとそれほどでもなくて首をかしげたこともあります。逆に、子どものころは苦手だったナスが今では好物になっていたりすることも。ちなみにおばあちゃんは今でも私がナスを苦手だと思い込んでいる節があります。

こうして、さまざまな理由で味わいは変わっていきますが、他人の食の体験も本を経由して味わうことができることに気付いたあと、自分が食べてきたおいしいものも日記に書いておくといつか追体験できるのでは、と思って少しずつ書きはじめました。そうして食べたものを言葉で表現しようとキーボードに向かってみると、百読は一食に如かず、ということにも改めて直面しているこのごろです。