前回は、日本の給食が相互依存的世界観に基づいている、という話をしました。相互依存的世界観とは、「自分という存在が他者との関係性の中で成立している」という考え方でした。

では、この相互依存的世界観はどこからきたのでしょうか? このことを考えるために、今回は学校給食の歴史的起源をたどってみたいと思います。

学校給食の歴史的起源を考える準備として、まず「学校」そのものの起源を見てみましょう。私たちのよく知る「学校」は、明治時代に入ってから制度として整えられたものです。江戸時代には僧侶などが先生を務める寺子屋がありましたが、それは現在の学校とはかなり違ったものです。

寺子屋は、子どもが地域コミュニティの一員として生きるための力を育む場でした。一方で、学校は、子どもを「国民」にするための場です。明治時代、日本は欧米列強に植民地化されかねない危険な状況にありました。外圧に対抗するには、たとえば津軽出身の人も薩摩出身の人も「日本国民」として団結する必要がありました。

重要なのは、国民意識を育てるためには、相互依存的世界観が重視する「周囲の他者(人々や自然)との重なり」を、ある程度断ち切る必要があったという点です。津軽出身の子どもが、自らを「津軽人」ではなく「日本国民」と認識するためには、周囲の他者との関係から自由になり、国家という抽象的なものと再結合されなければならなかったのです。

そのことに対応して、当時(1900年頃)の学校では、方言の使用が禁止されました(早野慎吾,2007「国語科教育における地域言語教育(2)」宮崎大学教育文化学部紀要)。方言を禁止する必要があったのは、それが周囲の他者とのコミュニケーション手段だったからです。そのため「日本国民」の言語として標準語が整備され、その使用が強制されました。

おもしろいのは、ちょうど同じころに、日本で学校給食が広まっていったという点です。教育制度が相互依存的世界観を否定しようとしていた時代に、その世界観に基づく学校給食が広まっていったのです。

日本での学校給食の最古の事例は、山形県鶴岡町(現在の鶴岡市)にあった私立忠愛小学校のものとされています。記録によれば、この学校では1889年から給食が提供されていたようです。

注目すべきは、この学校が仏教寺院(大督寺)の敷地内に建てられていたことです。給食には、僧侶たちが托鉢でもらった食べ物が用いられたそうです。托鉢とは、僧侶が人々から布施(食べ物やお金)を受ける修行です。なぜそれが修行とされるのかといえば、托鉢とは執着を手放し、自らの生存さえも他者に委ねる行為だからです。

忠愛小学校の給食では、托鉢によって得られた食材を使うため、当然メニューは選べません。子どもたちは、寺に暮らす僧侶たちの姿を日常的に目にしていたはずです。仏教では、食事もまた相互依存的世界観を体感する修行の一つです。そうした空間で給食をいただく中で、子どもたちもまた、自分の存在が周囲の他者(人々や自然)に支えられていることを、体感として理解していったに違いありません。

この忠愛小学校のような事例は、その後、草の根的に広がっていったようです。こうした草の根的実践を、地方自治体は徐々に組織化していきました。たとえば、東京府(現在の東京都)は1919年に小学校での給食を提供し始めました。その後1932年には、給食に対して国庫補助が行われるまでになります。(藤原辰史,2018『給食の歴史』岩波新書)。

上の経緯を見ると、日本の学校給食は、国によるトップダウンではなく、ボトムアップによって始まったことがわかります。だからこそ、給食の背後には、当時広く行き渡っていた仏教的世界観、つまり相互依存的世界観が存在しているのです。

読者のみなさまの多くは、仏教とあまり関係せずに過ごしているかもしれません。私もそうです。ですが、宗教としての仏教が影をひそめても、その世界観は日々の営みの中に織り込まれ、私たちの生き方に影響を与えているのです。なんだか不思議ですね。

前回と今回は、「世界観」というやや難しいテーマを扱いました。次回は、世界観について理解を深めていただく回にしたいと思っています。それでは、また。

 

小松 光(坂ノ途中の研究室)