前回は、日本の学校給食の話をしました。私たちはあまり意識しないけれど、学校給食が私たちの食生活に大きな影響を与えている、という話でした。

日本の学校給食では、子どもたちはメニューを選べません。毎日与えられた食事を食べ続けるわけです。そのことを通じて、子どもたちは「適切な食事とはどんなものか」を学んでいます。その結果として、大人になっても、肉を大量に食べたり、カロリーを過剰に摂取することがあまりないのです。

では、そもそもなぜ、日本の学校給食ではメニューが選べないのでしょうか? このことを考えるためには、日本の給食が、「メニューを選べない」という以外に、どのような特徴を持っているのかを考えるのが有効です。そうした特徴を見ていくと、背後に一つの世界観があるのに気づきます。

私は、日本の給食の特徴として、次のようなものを思いつきました。

・できるだけ地域でとれた旬の食材を使う。
・加工食品を極力使わない。
・子ども自身が給仕をする。

これらの特徴は、日本ではあたりまえですが、国際的にはあたりまえではありません。給食に冷凍ビザが出てくるような国もあります。給食を子どもではなく、大人が給仕をする国もあります。むしろ、そちらのほうが一般的です。日本では、小学1年生から子どもたちが給仕をしますが、よく考えてみると、これは学校にとって、恐ろしく手のかかることです。

以上のような日本の給食の特徴はなんのためにあるのでしょうか? 子どもたちが、自分の食事の由来を理解して感謝の念を持つためだ、と私は考えています。

子どもたちは、自分たちの給食が、どこか遠くで作られた加工品ではなく、地域でその季節にとれた食材から作られていることを知っています。そして、その食材を調理員さんが料理してくれ、級友が給仕してくれたことを知っています。

このように食事の由来を理解しているからこそ、食事の前後の「いただきます」「ごちそうさま」にも意味が感じられるのです。そして、食事は他者(地域の自然、農家さん、調理員さん、級友など)からの贈り物ですから、できるだけ残さないようにするわけです。

このような世界観のことを、文化心理学や環境心理学で相互依存的世界観と呼びます(協調的世界観と呼ぶこともあります)。相互依存的世界観と対照的な世界観は、独立的世界観です。それぞれ図で示すと、以下のような感じです(Markus and Kitayama, 2010をもとに描いた)。

まず、相互依存的世界観について説明しましょう。左図の真ん中にある円が自分です。その周囲にある円は他者(ほかの人、自然物など)です。重要なのは、自分と他者が重なり合っており、自分には明瞭な輪郭がない点です。そのことが意味するのは、自分はそれ自体として存在するのではなく、他者とのかかわりの中で成立している、ということです。

学校給食についていえば、自分の存在は、他者(地域の自然、農家さん、調理員さん、級友など)とのネットワークの中で可能になっている、ということです。つまり、食事というのはネットワークからの贈り物なわけです。贈り物なのだと考えれば、日本の学校給食でメニューが選べないのは合点がいきます。

いっぽう独立的世界観では、自分は他者とは独立して存在します(右図)。自分は他者とやりとりをしますが、それは自分の欲求や必要を満たすためです。

この世界観に基づいているものは、なんでしょうか? たとえば、ファミリーレストランでの食事は、こちらの世界観に近いように、私は感じます。ファミリーレストランには、いつ行っても豊富なメニューがあり、そのなかから自分の欲求に合うものを選びます。給食とは大違いですね。

今回は、日本の給食が相互依存的世界観に基づいているという話でした。では、この相互依存的世界観はいったいどこから来たのでしょうか? その話を次回させてください。それでは、また。

 

小松 光(坂ノ途中の研究室)